最近、東京メトロの構内などで見かける広告。
永田町駅で見つけた。
明治の先人の苦闘を偲ぶことは大事。 pic.twitter.com/AF8R7M0zeD— 江崎道朗@富民厚防 (@ezakimichio) May 8, 2026
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📢 江藤新平×鍋島直正の漫画が
『モーニング』に掲載されます!
\警察女子のリアルを描いた人気漫画『ハコヅメ』の作者・泰三子氏が描く超本格幕末譚『だんドーン』の番外編として・・・… pic.twitter.com/2aHhyEKhX5
— 佐賀県文化課 (@sagabunka) April 30, 2026
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📢 江藤新平×鍋島直正の漫画が
『モーニング』に掲載されます!
\警察女子のリアルを描いた人気漫画『ハコヅメ』の作者・泰三子氏が描く超本格幕末譚『だんドーン』の番外編として・・・
江藤新平と鍋島直正を主人公とした『さがドーン~江藤新平と肥前の妖怪~』が週刊漫画雑誌『モーニング』に5月14日発売号から5週連続で掲載されることに👀✨
なんと初回は表紙まで『さがドーン』❗❗そして・・・
江藤の功績にゆかりのある最高裁判所や国会議事堂等がある永田町駅で駅ばりポスターを実施します❗
全国の皆さんに江藤新平の功績を知ってもらうきっかけになれば嬉しいです🎵東京在住の方、東京観光の方、GW期間中にぜひご注目ください🚃
5月14日はみんなで書店、コンビニへダッシュです🏃🏻♂️🏃🏻♂️🏃🏻♂️💨💨
(コミックDAYSでも配信されるみたいですよ♩)——————————————–
①週刊漫画雑誌『モーニング』への掲載
発売日:令和8年5月14日(木)
※以降5週連続掲載で完結
掲載媒体:週刊漫画雑誌『モーニング』
24号~28号/講談社②永田町駅ばりポスター
期間:令和8年5月4日(月)~14日(木)まで
場所:永田町駅構内
(有楽町線、半蔵門線、南北線の
ポスター掲示板 最大63箇所)
——————————————–#江藤新平復権プロジェクト #江藤新平 #鍋島直正 #復権 #佐賀県 #泰三子 #ハコヅメ #だんドーン #さがドーン #講談社 #モーニング #東京 #最高裁判所 #国会議事堂 #永田町 #駅ばりポスター
大反響御礼❗️
さがドーン〜江藤新平と肥前の妖怪〜が、
単行本化します❗️
8月21日発売です❗️
すでに予約開始されてますので、
お見逃しなく👀まだ1話目なので、追いつけます!
コチラから↓↓↓「さがドーン 〜江藤新平と肥前の妖怪〜 | 第一話 妖怪と化け物」https://t.co/G6ZrlUSAXo…
— 『ハコヅメ』『だんドーン』公式 (@KOBAN_JOSHI) May 15, 2026
というわけで、今回は江藤新平について。
江藤新平(えとう しんぺい)は、幕末から明治初期に活躍した佐賀藩出身の政治家です。明治新政府の初代司法卿(現在の法務大臣)として、日本の近代的な司法制度・法治国家の基礎を築いたことで知られています。
彼の生涯と功績を短くまとめると、以下の3つのポイントに集約されます。
1. 司法の近代化と「四民平等」の推進
新政府の司法卿に就任すると、フランス法をベースにした民法編纂に着手し、裁判所制度の整備や警察制度の基礎作りに尽力しました。また、身分制度の打破(四民平等)や教育の普及(学制の基礎)にも初期段階で大きく貢献しています。
2. 三権分立と「法の支配」へのこだわり
行政と司法を明確に分ける「三権分立」を徹底しようとしました。たとえ政府の高官であっても、不正を行えば法に基づいて厳しく追及したため(山県有朋らが絡んだ汚職事件の追及など)、政府内の保守派や大久保利通らと激しく対立することになります。
3. 下野と「佐賀の乱」での悲劇
1873年(明治6年)、朝鮮への使節派遣をめぐる論争(征韓論)に敗れて下野(新政府を辞職)。その後、地元・佐賀で不平士族たちに担がれる形で、1874年に明治政府に対する反乱「佐賀の乱」を起こします。しかし、大久保利通率いる政府軍に敗北し、捕らえられて刑死(斬首・梟首)しました。
一言で言うと
妥協なき理想主義で「法治国家・日本」の骨格をまたたく間に作り上げた天才でありながら、最後は自らが作った近代司法の手続きを十分に受けられないまま、政治闘争に敗れて散った悲劇の改革者です。
倉山満さんの著書の一つ、検証 検察庁の近現代史 (光文社新書) より。
第1章の主役が江藤新平です。
この中で江藤新平が追及した代表事例に関する記述があります。その要約は以下の通り。
江藤新平が司法卿として徹底追及した明治初期の3大汚職事件(山城屋事件、尾去沢銅山事件、小野組転籍事件)について、発生時期と事件の純粋な歴史的要約を改めてまとめました。
1. 山城屋事件(1872年 / 明治5年)
【概要】陸軍省の公金が、政商の投機資金に流用・横領された事件
主な人物: 山城屋和助(長州出身の政商)、山県有朋(当時は陸軍大輔)
事件の構図: 御用商人の山城屋が、同郷のつながりから山県ら陸軍省幹部に接近。陸軍省の公金(軍事予算)から莫大な資金を無担保・無利息で融資(不正流用)してもらいました。山城屋はその資金でフランスに渡り生糸の投機に手を出しますが、大失敗して巨額の損失を出します。
結末: 江藤新平率いる司法省がこの不正を察知して徹底追及。追い詰められた山城屋は、陸軍省内で証拠書類を焼いたのち割腹自殺を遂げました。資金の出し手であった山県有朋は引責辞職(のちに復職)に追い込まれたものの、西郷隆盛らの政治的配慮により刑事罰は免れました。
2. 尾去沢銅山事件(1871年〜1874年 / 明治4〜7年)
【概要】大蔵省のトップが、お抱えの政商に「民間の有力銅山」を強奪させた事件
主な人物: 井上馨(当時は大蔵大輔)、岡田徳兵衛(銅山の元の経営者)、五代友厚(政商)
事件の構図: 大蔵省の最高責任者だった井上馨が、秋田県の優良な「尾去沢銅山」に目をつけました。井上は「旧藩の借金は新政府が引き継ぐが、岡田(経営者)の個人負債は認めない」という理不尽な法令(手形法)を出し、岡田を破産に追い込んで銅山を差し押さえました。そして、自らの息がかかった政商・五代友厚らに格安で払い下げ、国家権力を背景とした事実上の「強奪」を行いました。
結末: 被害者から直訴を受けた司法卿・江藤新平は、法の下の平等を掲げて井上馨に対して逮捕状を出そうとするなど激しく追及。危機感を抱いた井上は大蔵大輔を辞任しました。江藤は身柄拘束を試みますが、大久保利通や岩倉具視ら政府中枢の介入(身内かばい)によって阻まれ、有耶無耶に終わりました。
3. 小野組転籍事件(1873年 / 明治6年)
【概要】地方行政の違法行為(利権の囲い込み)を、司法省が刑事追及した事件
主な人物: 槇村正直(京都府権知事)、井上馨(大蔵大輔)、小野組(当時最大手の有力豪商)
事件の構図: 政府の公金(税金など)を取り扱っていた豪商・小野組が、京都から神戸・東京への「転籍(営業拠点の変更・業務拡大)」を申し出ました。しかし、京都府(槇村正直)は税収減や利権を失うことを恐れてこれを不当に拒否。大蔵省の井上馨らもこれに絡み、公金取扱権という権力をチラつかせて小野組から巨額の「手数料(事実上の賄賂)」を巻き上げようとしたとされています。
結末: 利権強要と癒着の動きを重く見た江藤新平は、京都府側の姿勢を「違式罪(違法行為)」として刑事事件化し、一斉捜査を開始。前述の「尾去沢銅山事件」とこの「小野組転籍事件」の双方から司法の猛追を受けた井上馨は、部下の渋沢栄一とともに大蔵省を辞職に追い込まれました(小野組の勝訴で決着)。しかし、これも政権中枢の政治判断により、井上らが処刑などの刑事罰を受けることはありませんでした。
共通する歴史的意味
一連の汚職追及により、江藤新平は「たとえ政府高官であっても法の下に平等に裁く(法の支配)」という近代国家の理想を貫こうとしました。
しかし、この妥協なき姿勢は薩長藩閥(特に長州閥の山県有朋・井上馨ら)から激しい怨嗟を買い、政府内での孤立を深める原因となります。これが、のちの「明治六年政変」での下野、そして「佐賀の乱」の際に、大久保利通らによってまともな弁護の手続きすら与えられない電撃裁判で斬首・梟首(生首をさらされる刑)に処されるという、悲劇的な最期の最大の引き金となりました。
江藤新平を模範とすべき職業について考えてみます。
江藤新平の生涯や思想、そして実践した行動から考えると、彼を最も強い「模範(あるいは反面教師を含めた教訓)」とすべき役職は、現代で言えば以下の3つが挙げられます。
特に「法務大臣」と「検事総長」、そして行政の暴走をチェックする「弁護士」の視点において、彼の残した足跡は今なお深い意味を持っています。
1. 法務大臣(国家の法制度を設計・運用するトップ)
江藤が初代司法卿(現在の法務大臣)であったことから、最も直接的な模範となるポストです。
模範とすべき点(迅速な改革と大局観):
江藤はわずか1年ほどの在任期間で、司法の独立、警察制度の基礎、民法編纂、さらには人権救済(娼妓解放令)までを成し遂げました。国家の骨格をなす法制度を「前例踏襲」にとらわれず、圧倒的なスピード感と理想を持って整備していく姿勢は、法務行政のトップにとって究極の模範と言えます。
教訓(政治的リアリズム):
一方で、理想を急進的に進めすぎた結果、政府内の他部局(大蔵省や陸軍省)との全面戦争を招き、最終的には自身の失脚と法制度の持続性を危うくしました。法を現実の社会にどう着地させるかという「政治的バランス」の重要性を教えてくれる存在でもあります。
2. 検事総長(検察庁のトップ・巨悪を眠らせない不偏不党の象徴)
江藤が実践した「山城屋事件」や「尾去沢銅山事件」の追及は、まさに現代の東京地検特捜部や検察トップが担う「権力犯罪の摘発」そのものです。
模範とすべき点(法の下の平等・厳格な不偏不党):
江藤は、新政府の最有力者である長州閥の幹部(山県有朋や井上馨)に対しても、牙を剥くことを恐れませんでした。「身内だから」「国家の安定のためだから」という政治的配慮を一切排し、「法を犯した者は、誰であれ裁かれねばならない」という法の支配(Rule of Law)を命懸けで体現した姿勢は、検察権力の独立性と正義のあり方の原点です。
3. 日弁連会長 / 刑事弁護人(人権の擁護と正当な裁判手続きの番人)
これは江藤の功績というよりも、彼の「最期(悲劇)」から逆説的に導き出される模範です。
教訓とすべき点(適正手続の厳守):
江藤は佐賀の乱で捕らえられた際、自らが整備したはずの近代的な裁判手続き(時間をかけた審理、弁護人の着席など)を一切与えられず、大久保利通の意向による「結論ありき」の電撃裁判で処刑されました。
この歴史は、「国家権力が暴走すれば、法そのものが政敵を抹殺するための残酷な道具になり下がる」という恐怖を証明しています。被疑者・被告人の人権を守り、どんな人間にも「適正な裁判を受ける権利(デュー・プロセス)」を保障するために戦う弁護士の世界において、江藤の悲劇は「二度と繰り返してはならない司法の暗黒」として、常に意識されるべき原点と言えます。
総括
あえて1つに絞るならば、彼は「検事総長」の精神的支柱として最もふさわしい人物と言えます。
国家の最高権力層に渦巻く汚職(山城屋・尾去沢・小野組事件)に対し、組織の存亡をかけて逮捕状を出そうとした彼の執念は、「巨悪を眠らせない」という検察の理想そのものだからです。
Youtube動画を紹介します。
要約は以下の通り。
ご提示いただいたYouTube動画『江藤新平 前編 征韓論で大久保利通を論破』の内容を要約しました。
この動画は、江藤新平の生い立ちから、初代司法卿としての活躍、そして「明治六年政変」で下野するまでの前半生の軌跡を描いています。
1. 生い立ちと幕末の活躍
低い身分からの台頭: 1834年、佐賀藩のかなり低い身分(下級武士)の家に生まれましたが、上昇志向が強く非常に勉強熱心でした [00:37]。
脱藩と藩主への建言: 29歳の時に脱藩して京都へ向かい、桂小五郎らと交流 [01:56]。当時の佐賀藩では脱藩は本来なら死罪でしたが、帰郷後に提出した京都の情勢報告(京都見聞)が藩主・鍋島直政に高く評価され、奇跡的に永蟄居(実家謹慎)への減刑で済みました [02:20]。
新政府での躍進: 戊辰戦争では東征大総督府軍監として上野戦争の勝利に貢献し、岩倉具視に対して「江戸を東京と改称すべき」と進言するなどの才覚を発揮しました [03:18]。
2. 初代司法卿としての「法の支配」への挑戦
留守政府での電撃改革: 1871年、岩倉使節団が外遊に出た後の「留守政府」を西郷隆盛らと共に任されると、事前の約束(大きな改革はしない)を破る形で地租改正や学制などの近代化を急進的に推し進めました [03:48]。
司法の独立と汚職追及: 初代司法卿に就任した江藤は、三権分立を目標に裁判所や警察の基礎を整備 [04:48]。司法省の権限を拡大して大蔵省と激しく衝突し、当時大蔵省のトップであった長州閥の井上馨が起こしたスキャンダル(汚職)を徹底的に追及して辞職に追い込みました [05:21]。
3. 征韓論争と大久保利通との対立
征韓論への賛成: ロシアの南下政策に対抗するための国防上の理由や、不平士族(元武士)たちの不満を解消する場を与えるため、西郷隆盛らと共に「征韓論(朝鮮への使節派遣)」に賛成します [05:43]。
大久保利通を論破: 帰国した岩倉や大久保利通ら「内治優先派」と閣議で激突した際、江藤は卓越した論理で派遣延期論を論破し、一度は西郷の朝鮮派遣を閣議決定させました [07:04]。この時、大久保は自身の管轄(大蔵省)を荒らされた恨みも重なり、江藤に対して激しい怒りを抱くようになります [08:32]。
4. 結末(明治六年政変による失脚)
裏工作による逆転劇: 敗北した大久保や岩倉らは辞表を提出して抗議し、極度のプレッシャーから太政大臣の三条実美が病に倒れます [08:42]。
下野: 代わって太政大臣代理となった岩倉具視が、明治天皇に直接「反対派の意見書」を提出したことで閣議決定は覆され、西郷の派遣は中止となりました [09:13]。これに抗議する形で西郷が下野し、翌日には江藤新平も板垣退助らと共に辞表を提出して政府を去ることになりました(明治六年政変) [09:41]。
この動画(前編)は、江藤がその類まれなる頭脳で大久保利通らを追い詰めたものの、最後は政治的な裏工作によって敗北し、のちの「佐賀の乱」へとつながる悲劇の幕開けで幕を閉じています。
ここで、仮に1873年の征韓論が勝利していれば?の想定。
もし明治六年政変(1873年)で江藤新平や西郷隆盛らの「征韓論」が勝利し、実際に西郷が使節として朝鮮に派遣され、あるいは出兵が強行されていたら、日本と東アジアの歴史はどのように変わっていたでしょうか。
歴史のifですが、主に「国内政治」と「国際関係・軍事」の2つの側面から、予想されるシナリオを分析・まとめました。
1. 国内政治への影響:士族反乱の回避と「江藤・西郷体制」の誕生
「薩長藩閥」の崩壊と新政権の誕生
大久保利通、岩倉具視、木戸孝允らは政治的に完全に失脚していたはずです。政府は西郷隆盛(軍事・象徴)と江藤新平・板垣退助・副島種臣(実務・政治)を中心とした、薩摩・佐賀・土佐の主導する新政権へ移行したと考えられます。
「士族反乱(佐賀の乱・西南戦争)」は起きなかった
江藤の佐賀の乱(1874年)も、西郷の西南戦争(1877年)も、基本的には征韓論争に敗れて下野した不平士族の不満が爆発したものです。彼らが新政府の中枢に残り、士族たちのエネルギーが「外(朝鮮)」へと向けられたため、国内での大規模な内戦は回避され、江藤が斬首・梟首される悲劇もありませんでした。
「法の支配」の早期定着と長州閥の排除
司法卿に復職、あるいはさらに権力を握った江藤新平により、山城屋事件や尾去沢銅山事件で追及されていた長州閥(山県有朋・井上馨ら)は徹底的に処罰され、政界から一掃されていた可能性が高いです。結果として、現実の歴史よりも「法の下の平等」や「官僚汚職への厳罰化」が早くから徹底された国家体制が作られたかもしれません。
2. 外交・軍事への影響:清国・ロシアとの早期衝突と「破局」のリスク
内政面では江藤の理想が一定程度進んだ可能性がある一方、外交・軍事面では当時の日本にとって極めて危険な賭けになったと予想されます。
西郷隆盛の殺害、または泥沼の全面戦争
西郷は「自分が朝鮮に赴き、暴挙を誘って殺されたら、それを出兵の口実にせよ」と主張していました。仮に西郷が朝鮮で殺害された場合、日本国内の世論は激昂し、準備不足のまま大規模な出兵に踏み切らざるを得なくなります。
清国(中国)との全面衝突
当時、朝鮮半島の宗主国であった清国は、日本の半島進出を黙認しなかった可能性が極めて高いです。現実の歴史(日清戦争・1894年)よりも20年も早い段階で、まだ近代化(徴兵制や軍備)が未成熟だった日本軍が清国軍と激突し、最悪の場合、敗北して明治政府そのものが瓦解するリスクがありました。
ロシア・イギリスら列強による介入・植民地化
動画でも言及されていた通り、当時ロシアは「凍らない港」を求めて南下政策を狙っていました。日本と清国が朝鮮半島を舞台に共倒れになれば、その隙を突いてロシアが半島、さらには日本海周辺を一気に実効支配した可能性があります。また、財政破綻した日本がイギリスなどの欧州列強に依存し、事実上の従属国・植民地(または半植民地)化する道へ進んだ危険性も否定できません。
総括:大久保利通の「正しさ」と、江藤新平の「冷徹な計算」
この歴史のifを考えると、大久保利通が「今は外征を避け、内治(国力を蓄えること)に専念すべき」とした判断は、国家の生き残りという意味では極めて現実的で正しかったと言えます。
しかし、江藤新平ほどの天才的な合理主義者が、列強の脅威というリスクを全く見誤っていたわけではありません。江藤は「朝鮮を自陣営(防波堤)にしなければ、どのみちロシアに取られて日本が詰む」という時間的猶予のなさを冷徹に計算していました。
もし征韓論が勝利していれば、日本は「内戦を回避して法治国家への歩みを早めたが、外交・軍事の暴走で早期に国家存亡の危機を迎えたかもしれない」という、極めてスリリングな歴史を歩んでいたと考えられます。
次の動画。
要約は以下の通り。
ご提示いただいたYouTube動画『江藤新平 後編 佐賀の乱』の内容を要約しました。
この動画(後編)では、下野した江藤新平が「佐賀の乱」へ巻き込まれていく経緯と、宿敵・大久保利通による非情な「暗黒裁判」、そして彼の歴史的評価について描かれています。
1. 大久保利通の策略と、反政府勢力の分断
大久保の危機感: 明治六年政変の後、内務卿(内務省のトップ)に就任した大久保利通は、政権を去った西郷隆盛や江藤新平ら不平士族の勢力が結託して反乱を起こすことを最も恐れていました [00:10]。そのため、「敵がバラバラのうちに一つつずつ叩く」という決意を固めます [00:41]。
江藤の帰郷: 江藤は板垣退助らと「愛国公党」を結成し、言論(民撰議院設立建白書)によって政府に立ち向かおうとしていました [00:55]。しかし、故郷の佐賀で不平士族(征韓党・憂国党)の不満が爆発寸前となり、彼らをなだめるために、周囲の反対を押し切って佐賀へ向かいます [01:30]。
仕組まれた挑発: これを好機と見た大久保は、事実確認もそこそこに鎮圧軍の出動を命令 [03:07]。さらに、大久保が送り込んだ傲慢な新知事(岩村高俊)が佐賀の士族たちを激しく挑発したことで、一気に武力衝突へと発展(佐賀の乱・1874年) [04:39]。江藤は望まぬまま反乱の指導者として担ぎ上げられてしまいました [05:07]。
2. 反乱の敗北と逃亡
圧倒的な軍事力の前に敗北: 当初は新政府軍を撃退した佐賀軍でしたが、大久保利通みずからが率いる最新兵器を備えた圧倒的な政府軍の前に敗北 [05:27]。江藤は軍を解散し、再起をかけて各地へ逃亡します [05:59]。
孤立無援: 鹿児島へ渡り西郷隆盛に協力を求めますが、「部下を見捨てて逃げてくるなど武士の風上にも置けない」と断られ、高知の板垣退助のグループ(林雄三ら)にも協力を断られます [06:08]。
皮肉な逮捕: 最終的に高知で捕らえられますが、身柄の特定に使われたのは、江藤自身が司法卿時代に創設した「写真付きの手配書(指名手配制度)」でした [06:40]。
3. 非情な「暗黒裁判」と悲劇的な最期
手続きを無視した処刑: 江藤は東京での正当な裁判を望みましたが、大久保によって佐賀へ護送されます [06:40]。裁判はわずか2日間の審理で、弁明(反論)の機会も与えられず、長所(調書)の確認すら認められない「結論ありき」の暗黒裁判でした [06:55]。
自ら禁じた刑罰での処刑: 江藤は斬首・梟首(生首をさらされる刑)という極刑に処されました。皮肉にも、梟首は江藤自身が司法卿時代に「海底律例」という法律で禁止したはずの残虐な刑罰でした。それまでの政府内の対立の恨みと、「見せしめによって他の士族の反乱を抑えたい」という大久保の強い思惑により、無理やり執行されたのです [07:04]。
4. 江藤新平の遺産と歴史的評価
泰三子氏の描く『さがドーン』をきっかけに、今こうして江藤新平の功績や、彼が命を懸けて戦った「法の支配」の歴史に再び光が当たることは極めて意義深いことです。
江藤が初代司法卿として挑んだ「たとえ政府高官であっても法の下に平等に裁く」という理念、そして身内の汚職すら見逃さずに徹底追及した姿勢は、現代の国会議員や行政監視を担う者にとっても決して色褪せない究極の模範です。
一方で、彼が創った「写真付きの指名手配制度」によって自らが捕らえられ、彼が禁止したはずの「梟首」によって命を落とすという皮肉な最期は、国家権力が暴走し、法が政敵抹殺の道具と化した際の恐ろしさを今に伝える最大の教訓でもあります。「適正な裁判手続き」がいかに守られるべきか、彼の悲劇は司法の暗黒として常に意識されなければなりません。
現代の政治においても、官僚独裁や身内への甘さといった弊害が散見される今だからこそ、我々は江藤新平の理想と悲劇から多くを学び、真の法治国家を守り抜いていかねばなりません。皆様もぜひ、永田町駅のポスターや漫画『さがドーン』、そして関連書籍を通じて、この偉大な先駆者の足跡に触れてみてはいかがでしょうか。

