サイトアイコン 前参議院議員 浜田聡のブログ

「江藤新平」と「後藤新平」の違いとは?100年先を見据えた偉大なる2人の先人

今回は日本の歴史上の偉人、江藤新平と後藤新平について。

簡潔に比較説明すると以下の通り。

名前がそっくりで混乱しやすい「江藤新平」と「後藤新平」ですが、生きた時代(活躍した時期)が異なり、完全に別人です。

一言で言うと、「幕末・明治初期に散った過激な改革者」が江藤、「明治後期から大正・昭和を支えた近代都市の設計者」が後藤です。

1. 江藤新平(えとう しんぺい)

キーワード:初代司法卿、佐賀の乱、悲劇の改革者

  • 生きた時代: 幕末 〜 明立初期(1834年〜1874年)

  • やったこと:

    • 明治政府の初代司法卿(いまの法務大臣)として、日本の裁判制度や警察制度の基礎を猛スピードで作り上げました(「身分に関わらず全員平等に裁く」という司法の近代化を推進)。

    • しかし、西郷隆盛らとともに「征韓論」の政争に敗れて下野(政府を辞めること)。

    • 故郷の佐賀に戻り、不平士族に担がれて「佐賀の乱」を起こしますが、敗北。最後は処刑(梟首)されるという悲劇的な最期を遂げました。

2. 後藤新平(ごとう しんぺい)

キーワード:台湾総督府民政長官、満鉄総裁、関東大震災の復興、東京市長

  • 生きた時代: 明治後期 〜 大正・昭和初期(1857年〜1929年)※江藤が亡くなった時、後藤はまだ10代です。

  • やったこと:

    • もともとは医師(官僚)で、抜群の行政能力を持った「大風呂敷(スケールの大きい大計画をぶち上げる人)」として知られます。

    • 台湾の近代化、南満州鉄道(満鉄)の初代総裁として活躍。

    • のちに東京市長や外務大臣などを歴任し、特に関東大震災(1923年)の直後には、焼け野原になった東京の復興計画を主導しました。現在の東京の道路(昭和通りや靖国通りなど)が広いのは、彼のグランドデザインのおかげです。

💡 覚え方のコツ

  • 江藤は「上(明治の始まり)」:初代の制度を作り、すぐに歴史の表舞台から消えた(佐賀の乱)。

  • 後藤は「後(明治の後半〜大正)」:後から来て、都市のインフラなど現代につながる形を作った(関東大震災の復興)。

区別がついたところで、後藤新平に関する動画を紹介します。

要約は以下の通り。

動画「【ゆっくり解説】よくわかる後藤新平【国を治療した男】」は、明治から大正時代にかけて活躍した医師出身の政治家・官僚である後藤新平(ごとう しんぺい)の生涯をユーモラスに解説したものです。

動画の内容を大きく4つの時期・実績に分けて要約します。

1. 医師から官僚への道(少年期〜衛生局長)

  • 不遇な少年期から医師へ:幕末の岩手県に生まれ、戊辰戦争の影響で一時農民となるものの、猛勉強して医学校を卒業。愛知県病院などで医師として働き始めます [00:34]。

  • 人脈と頭角:西南戦争の臨時病院での活動などを通じて人脈を広げ、内務省衛生局へ [02:11]。ドイツ留学で公衆衛生を学び、帰国後は衛生局長に就任して北里柴三郎らと伝染病研究所を設立しました [02:45]。

  • 日清戦争の検疫事業:帰還兵23万人以上の検疫を行う激務を、不眠不休の超人的な努力で成功させ、児玉源太郎に高く評価されます [03:56]。

2. 台湾の近代化(台湾総督府民政長官)

  • 1898年、台湾総督となった児玉源太郎のもとで民政長官(実質的な全権)に抜擢されます [04:27]。

  • 土地・歴史の調査:現地の習慣や歴史を徹底的に調査し、その土地に合わせた「ローカライズ」による合理的な統治を行いました [04:48]。

  • インフラ整備:アヘンや樟脳の専売化で財政を健全化。鉄道、港湾、発電所などを建設し、新渡戸稲造を招いて砂糖産業を発展させるなど、台湾の近代化の基礎を築きました [05:17]。

3. 満州の経営(南満洲鉄道 初代総裁)

  • 日露戦争後の1906年、南満洲鉄道(満鉄)の初代総裁に就任 [05:55]。

  • 陸軍や外務省との権力争いを抑えて主導権を握り、優秀な人材を引き抜いて強力な権限を確立します [06:26]。

  • 大連の街を経済拠点として開発し、「満鉄調査部」を設立。日本・中国・ロシア・アメリカの相互依存関係を見据えた、独自の大胆な外交・経営戦略を展開しました [07:03]。

4. 国内での政治活動と関東大震災からの復興

  • その後は国内で逓信大臣、外務大臣、東京市長などを歴任。郵便速達や簡易保険の導入、水道水の塩素消毒など、市民の衛生環境や利便性を高める政策を次々と実行しました [08:32]。

  • 帝都復興計画:1923年の関東大震災直後、内務大臣兼帝都復興院総裁に就任 [10:04]。当時の国家予算を遥かに超える大規模な都市計画を打ち出します。予算は大幅に縮小されたものの、現在の東京の広い道路や河川敷の公園の多くは、この時の彼の計画がベースになっています [10:44]。

後藤新平の最期と名言 [12:11]

その後も日本初のラジオ放送(NHKの前身)やボーイスカウト日本連盟の初代会長など、多方面で足跡を残し、1929年に71歳で亡くなりました。

彼の残した**「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ」**という言葉は、今でも広く知られています。

破天荒で強引なエピソード(通称「中二病」「DQN伝説」などと動画内では弄られています)もありつつ、圧倒的な実行力と先見の明で「国を治療した」偉大な人物として描かれています。

次の動画。

要約は以下の通り。

動画「【後藤新平の生涯】関東大震災後に東京を蘇らせ台湾経営に心を砕いた男の人生」は、卓越した発想力と実行力で台湾や満州、そして震災後の東京のインフラ・都市計画の基礎を築いた後藤新平(ごとう しんぺい)の生涯について解説した動画です。

主な内容は以下の通りです。

1. 少年時代から医師・病院長への抜擢

  • 1857年、現在の岩手県奥州(水沢)で武士の子として誕生 [00:54]。少年時代は大変な秀才でありながら、かなりやんちゃな一面もありました [01:05]。

  • 医学校に入学後は、首に縄をかけて眠気を覚ますほど猛勉強に励みます [02:05]。その有能さが認められ、24歳という異例の若さで愛知医学校長兼病院長に就任しました [03:05]。

  • この時期、暴漢に刺された自由民権運動の指導者・板垣退助の治療も担当しています [03:50]。

2. 官僚への転身と驚異の検疫事業

  • 地方にとどまる器ではないと評価され、内務省勤務の官僚へ転身 [04:28]。

  • 日清戦争の終結後(1895年)、大陸から帰還する兵士の検疫責任者に任命されます [05:45]。準備期間わずか2ヶ月という無茶なスケジュールの中、自らも43日間布団で寝ずに働き続け、23万人以上の検疫を乗り切る快挙を成し遂げました [05:59]。

3. 台湾統治と満州経営

  • 台湾民生長官(1898年〜):日本のやり方を無理に押し付けるのではなく、現地の文化や実情に合わせた「生物学の原則(ヒラメの目をタイの目にはできない)」に基づく統治を提唱 [06:45]。アヘンの段階的撲滅、上下水道や道路のインフラ整備、学校設立などを進め、台湾の近代化に大きく貢献しました [07:28]。

  • 南満洲鉄道(満鉄)総裁(1906年〜):初代総裁に就任し、単なる鉄道事業にとどまらず、炭鉱開発や沿線の都市経営など多岐にわたる事業を指揮しました [08:17]。

4. 閣僚の歴任と関東大震災からの東京復興

  • その後、内務大臣、外務大臣、東京市長などを歴任 [09:51]。

  • 1923年9月1日の関東大震災発生時、内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の復興を指揮します [10:14]。

  • 単なる元の状態への「復旧」ではなく、未来を見据えた「復興」を掲げました。予算の都合で規模は縮小されたものの、靖国通りや昭和通りなどの広大な幹線道路の整備、区画整理、鉄骨の近代的橋梁の架設、隅田公園や横浜の山下公園といった大規模公園の整備を断行しました [10:56]。

5. 晩年と遺された精神

  • その後もNHKの前身である東京放送局の総裁、ソ連訪問、ボーイスカウト日本連盟の初代会長など幅広く活動し、1929年に72歳で亡くなりました [11:53]。

  • 彼の残した「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう(自治三決)」という言葉は、ボーイスカウトをはじめ今も語り継がれています [00:25],[13:49]。

動画の後半(特典パート)では、彼の故郷である岩手県奥州市にある「後藤新平記念館」や等身大の人形、銅像などがある水沢公園などのゆかりの施設も紹介されています [13:03]。

目先の利益や在職中だけにとらわれず、100年後の未来を見据えたスケールの大きな国づくりを行った人物としてまとめられています。

今回は、名前がよく似ていて混同されやすい「江藤新平」と「後藤新平」の2人について取り上げました。

江藤新平が明治の「始まり(上)」において司法の近代化に命を懸けた過激な改革者であったのに対し、後藤新平は明治の「後半から大正(後)」にかけて、現代の東京の基盤となる都市計画やインフラを築き上げた実務家でした。アプローチや生きた時代は違えど、2人とも日本の未来を100年先まで見据えて激動の時代を駆け抜けた、偉大な先人であることに変わりはありません。

特に後藤新平が残したとされる「金を残すは三流、事業を残すは二流、人を残すは一流」という言葉は、現代の政治や組織運営、教育、そして私たち自身の生き方を考える上でも、非常に深い示唆を与えてくれます。目先の利益や形あるものだけに囚われるのではなく、次の世代に何を受け継ぎ、どのような「人財」を育てていくのか。これこそが、これからの日本をより良くしていくための本質ではないでしょうか。

歴史を学ぶことは、単に過去を知るだけでなく、私たちが進むべき未来の羅針盤を得ることでもあります。先人たちの不屈の精神と壮大なビジョンに学びながら、日々の活動に邁進してまいりたいと思います。

モバイルバージョンを終了