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ホリエモンも指摘する「起訴便宜主義の弊害」と、司法界のドン・平沼騏一郎の実像

今回は平沼騏一郎について。

平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867〜1952年)は、大正から昭和初期にかけて活躍した日本の裁判官、検察官、そして政治家です。保守・観念右翼の巨頭として知られ、司法界および政界に強大な影響力を持ちました。

主要なポイントは以下の通りです。

  1. 経歴と人物像
  2. 1. 司法省の異端児・平沼騏一郎の台頭
  3. 2. 政治家への影響力を増した「マッチポンプ」の手法
  4. 3. 歴史の転換点「日糖事件」と初の司法権発動
  5. 4. 「大逆事件」と総理大臣への毎朝の報告
  6. 5. ついに手に入れた「政治的武器」
  7. 6. 平沼の絶頂期と「右翼の大物」への変貌
    1. 「平沼閥」による司法の完全掌握
    2. 国粋主義団体「国本社」の設立と右翼化
  8. まとめ:検察の歴史から見えるもの
    1. 1. 本書の意義と平沼騏一郎の「誤解されがちな実像」
    2. 2. 生い立ちと「独自の思想」が作られた背景
    3. 3. 司法省入省と出世のきっかけ
    4. 4. 欧州視察と「西洋化」への不信感(大逆事件)
    5. 1. 検事総長としての政治的配慮と「最強の武器」の獲得
    6. 2. 「政友会寄り」と見られることへの警戒
    7. 3. 国本社(こくほんしゃ)の急拡大と権力基盤
    8. 4. 枢密院(すうみついん)での活動と「陰謀家イメージ」の定着
    9. 1. 「テロやクーデターは否定」平沼の軍部・国家改造へのスタンス
    10. 2. 軍の「不満」に配慮した新軍的アプローチ
    11. 3. 「政党内閣」の全否定と「平沼内閣運動」
    12. 4. 1939年、ついに「平沼内閣」が誕生した舞台裏
    13. 1. 平沼内閣の発足と「エラスティック(柔軟)」な組閣
    14. 2. 「行動主義」の中途半端さと内閣の総辞職
    15. 3. 内閣総辞職後の動向と東京裁判(A級戦犯)
    16. 4. 平沼騏一郎が遺した「戦争の原因」への洞察

経歴と人物像

  • 司法官僚としての台頭

    東京帝国大学法学部を卒業後、司法省に入り、大審院判事や検事総長、司法大臣を歴任。「司法界の法皇」と呼ばれるほどの圧倒的な権力を築き、独自の司法官僚閥(平沼閥)を形成しました。

  • 国本社の結成(1924年)

    反共主義・天皇親政(国体明徴)を掲げる政治団体「国本社(こくほんしゃ)」を設立。軍人、官僚、学者らを巻き込み、日本の右傾化・ナショナリズムの台頭に大きな役割を果たしました。

  • 第35代 内閣総理大臣(1939年)

    1939年1月、首相に就任。同年に締結された「独ソ不可侵条約」により、当時の日本の対外方針(日独伊三国同盟の交渉など)が根本から覆され、「欧州の天地は複雑怪奇」という有名な言葉を残して、わずか約8ヶ月で内閣総辞職しました。

  • 戦後のA級戦犯

    戦後は終戦時の枢密院議長などとして権力の中枢にいたことから、A級戦犯として逮捕。東京裁判(極東国際軍事裁判)にて終身刑の判決を受け、服役中の1952年に病気のため釈放され、その直後に没しました。

歴史的な位置づけ

司法の独立を守る厳格な法執行者の一面を持つ一方で、国家主義的な思想を司法・政治に持ち込み、日本が戦時体制(昭和の軍国主義)へと傾斜していく流れを思想的・組織的に支えた中心人物の1人と評されています。

様々な側面があるわけですが、ここでは司法のトップとしての側面を主に取り上げたいと思います。

検証 検察庁の近現代史 の2章が 平沼騏一郎 です。

この部分を要約して掲載します。

【近代史の闇】検察はいかにして「政治を動かす武器」となったのか?〜平沼騏一郎の台頭と日糖事件〜

現代の日本でも、政治と検察の関わりはしばしば世間の注目を集めます。しかし、「検察が政治に対して強大な権力を持つにいたった原点」がどこにあるかをご存知でしょうか。

その鍵を握るのが、のちに「司法界のドン」「右翼の大物」と呼ばれ、首相にまで上り詰めた平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう)という人物、そして明治末期に起きた大規模汚職事件です。

今回は、歴史の転換点となった「検察と政治の結びつき」について、書籍の記述をベースにわかりやすく解説します。

1. 司法省の異端児・平沼騏一郎の台頭

平沼騏一郎は、慶応3年(1867年)生まれ。東大法学部を卒業後、司法省に入り頭角を現していきます。当時の司法省内では異色の経歴や実力を持っていました。

  • 語学の天才:専門はイギリス法でしたが、フランス革命を熱心に研究し、さらにわずか3ヶ月でドイツ語を習得して専門書を読みこなしたといいます。

  • 「非・山県系」からの脱却:当時の司法省は山県有朋(長州閥)に近い清浦奎吾らが牛耳る「山県系エリート」が主流でした。当初、平沼はその主流派ではありませんでしたが、実力を認められ、明治33年(1900年)に東京控訴院検事となったことで、本格的に検事としての道を歩み始めます。

  • 「新刑法」の制定:ドイツの最新研究を反映した新刑法の制定に尽力し、政府委員として議会答弁に立つなど、司法省内で着実に地歩を固めていきました。

2. 政治家への影響力を増した「マッチポンプ」の手法

平沼は、汚職事件の追及を通じて政治家への影響力を拡大していきます。その象徴的なエピソードが、時の大物政治家・後藤新平との暗闘です。

後藤新平が台湾民政長官時代に始めた「台湾での富くじ(彩くじ)」が、内地の法律(賭博罪)に抵触するとして問題視された際、平沼が関わった新立法によって後藤は窮地に立たされました。しかし、のちに二人は仲直りをして懇意になります。

【歴史の評価】

この一連の動きは、自ら火を放って(事件を追及して)自ら消し止める(恩を売る)という、一種の**「マッチポンプ」**であったとも指摘されています。

平沼は、西園寺公望や原敬といった政友会(当時の二大政党の一つ)の実力者たちとも良好な関係を築き、司法省内での地位を「司法次官」「検事総長」へと順調に引き上げていきました。

3. 歴史の転換点「日糖事件」と初の司法権発動

検察の歴史において、もっとも重要なエピソードの一つが明治42年(1909年)の「日糖事件(日本製糖汚職事件)」です。

大日本製糖株式会社が、消費税増税(砂糖消費税)の法案をめぐり、与野党の代議士20名以上に巨額の賄賂を贈っていたことが発覚。検察がこれを大々的に検挙しました。

この事件が検察の歴史において「最重要」とされる理由は次の2点にあります。

  • 理由①:検察が主体的に捜査を指揮した初の事件

    それまで検察(司法部)は、実業家や官僚の不正に対して無力でした。警察官も検事の言うことより富豪の命令を聴くような時代でしたが、この事件で検察が機密費を自ら捻出し、主体的に証拠固めを行って検挙に成功しました。

  • 理由②:史上初の「指揮権発動」

    捜査の手が石油業界の贈収賄にまで及びそうになった際、時の首相・桂太郎が捜査の見合わせを指示。これが言わば史上初の「指揮権発動」となりました。結果として捜査はそれ以上進みませんでしたが、検察の存在感が世間や政財界に強烈に知れ渡るきっかけとなりました。

4. 「大逆事件」と総理大臣への毎朝の報告

明治43年(1910年)、明治天皇らの暗殺を企てたとして社会主義者らが一斉検挙された「大逆事件」が起こります。

この国家を揺るがす大事件において、平沼は病気になった検事総長に代わって事実上の捜査指揮を執りました。平沼は内務省などと緊密に連携し、情報の漏洩がないよう徹底的に統制。

驚くべきことに、平沼はこの時期、桂太郎首相に対して「毎朝6時」に私邸を訪れ、進展状況を直に報告していたと回顧録で語っています。これにより、平沼は司法界だけでなく、政権中枢からも絶大な信頼を勝ち取ることになりました。

5. ついに手に入れた「政治的武器」

数々の大事件を経て、検察は政治家に対して圧倒的な優位に立ちます。

かつては政治家にいいようにあしらわれていた検察ですが、日糖事件や大逆事件などの摘発を通じて、ある「強力なルール」を確立しました。

「政治家に対して、議員辞職や政界引退をすれば不起訴や起訴猶予にする」

これにより、検察は法的手段を超えて、「政治家を政界から引退させるかどうかを決める権力」、すなわち最強の政治的武器を手に入れたのです。

6. 平沼の絶頂期と「右翼の大物」への変貌

大正期に入ると、平沼の権力は絶頂に達します。

「平沼閥」による司法の完全掌握

平沼は行政整理(官僚の削減)を利用して、古い考えの検事や判事を大規模に整理(リストラ)し、自身の息のかかった「平沼閥」で検察・司法省内を固めました。

平沼自身は、検事総長から大審院長(現在の最高裁判所長官にあたる)、さらには法相、枢密院副議長へと上り詰めます。

国粋主義団体「国本社」の設立と右翼化

司法界にとどまらず、平沼の政治活動はさらに活発化します。大正13年(1924年)、平沼を社長として「国本社(こくほんしゃ)」という国粋主義(右翼系)団体が設立されました。

  • 会員数:最盛期には全国で1万人

  • メンバーの顔ぶれ:軍の大物(東郷平八郎や荒木貞夫)、のちに枢密院議長となる原嘉道などの司法関係者、さらには政党の幹部まで。

平沼は単なる「司法界のドン」の枠を超え、「右翼の大物」として日本の国家方針に巨大な影響力を与える存在になっていったのです。

まとめ:検察の歴史から見えるもの

明治から大正にかけて、平沼騏一郎という不世出の怪物の登場と、巨大汚職事件の摘発によって、日本の検察は「行政府から独立した、政治をも動かせる巨大な権力」へと変貌を遂げました。

「巨悪を眠らせない」という正義の側面と、「政治的な武器として機能する」という危うさの双方が、この時代に形作られたと言えます。現代のニュースを見る際にも、こうした「歴史の原点」を知っていると、より深い視点で見えてくるかもしれません。

平沼騏一郎の動画を紹介します。

要約は以下の通り。

YouTube動画は、田中一平氏による新書紹介シリーズの第5回「萩原淳 著『平沼騏一郎 — 検事総長・首相からA級戦犯へ』(中公新書)」の解説パート①(生い立ち〜司法官僚としての頭角まで)です。

動画の内容を要約すると、ポイントは以下の4点にまとめられます。

1. 本書の意義と平沼騏一郎の「誤解されがちな実像」

  • 平沼騏一郎は「司法界のドン」や「右翼の大物」として有名ですが、まとまった研究書や本がこれまで意外と少なく、近代史ファンでも誤解しているケースが多い人物です。

  • 著者の萩原淳氏(琉球大学准教授・京都大学博士)は、平沼研究の第一人者であり、本書はその確かな研究ベースで書かれた決定版と言えます。

2. 生い立ちと「独自の思想」が作られた背景

  • 幼少期の教育と保守思想:慶応3年(1867年)に津山藩士の子として生まれ、幼少期に祖母や塾から「儒学・国文学」の教育を受けました。また、学生時代に鎌倉・円覚寺で禅の修行を積んだ経験などが、のちの国粋主義・保守思想の源流となっています。

  • 最先端の西洋法学への精通:一方で、東京大学法学部に進学した平沼は、高名な穂積陳重らのもとで「当時最先端の西洋法学理論」を熱心に学び、極めて優秀な成績を収めました。

  • 思想の二面性:平沼は「単なる頑迷な保守主義者(右翼)」ではなく、西洋の最新学問を完璧に理解した上で、あえて伝統的な価値観を重視した人物である、という点が彼を理解する最大のポイントです。

3. 司法省入省と出世のきっかけ

  • 平沼は実家の経済事情から、学費を出してもらう代わりに卒業後に入省を義務付けられる「司法省の給費生」となり、明治21年(1888年)に司法省へ入ります。

  • 出世の大きな契機となったのが、1900〜1901年に起きた「司法官俸給増額要求事件」です。これは司法官僚たちが給与増額を求めた運動でしたが、時の政友会(伊藤博文内閣)への政治的圧力とみなされ、多くの山県系官僚が処分されました。平沼はこの運動に加わらずに鎮静化に回ったため、能力の高さに加え「政友会(政党)に近い有能な官僚」と評価され、出世街道(参事官や民刑局長など)を駆け上がることになります。

4. 欧州視察と「西洋化」への不信感(大逆事件)

  • 明治40年(1907年)に欧州各国の司法制度を視察したことで、さらに司法省内での権威(平沼閥の形成)を高めました。しかし平沼は、駐英大使の小村寿太郎に対し「司法の西洋化は(不平等)条約改正の手段に過ぎない」と語るなど、西洋化に全開で迎合していたわけではありませんでした。

  • のちに幸徳秋水らが死刑となった「大逆事件(1910年)」の捜査指揮を執った際、平沼は「幸徳がフランス語や英語を学んで余計な(無政府主義などの)知識を得たことが事件に繋がった。漢学だけを学んでいれば事件は起きなかった」という旨の回想を残しています。ここからも、彼の「西洋文明に対する根強い不信感」が見て取れます。

(まとめ)

この動画(Part①)では、平沼騏一郎が「最先端の西洋法学をマスターした極めて有能な実務官僚」という盾を持ちながら、「西洋化の弊害を警戒する強力な国粋・保守思想」という剣を研ぎ澄まし、のちに司法界を牛耳る怪物へと成長していく前史が描かれています。

※動画はPart②へと続く構成になっています。

次の動画。

要約は以下の通り。

YouTube動画は、田中一平氏による新書案内『平沼騏一郎』の解説パート②(検事総長時代〜1920年代の枢密院副議長時代まで)です。

動画の内容を要約すると、ポイントは以下の4点にまとめられます。

1. 検事総長としての政治的配慮と「最強の武器」の獲得

  • 大正元年(1912年)、平沼は検事総長に就任し、約9年間にわたりその座に君臨します。

  • 平沼は検察権を行使する際、国家の安定(内閣の存続など)を第一に考え、政治勢力に強く配慮しました。

  • 大浦事件(1915年):時の大隈重信内閣の農商務相・大浦兼武が政友会議員を買収した汚職事件。平沼は「現職国務大臣の起訴は国家の大名に関わる」とし、大浦が「大臣を辞めて政界引退するなら起訴しない(起訴猶予)」という幕引きを図りました。

  • この手法により、検察は「政治家の息の根を止めるか、生かすか」を決める強大な政治的武器を手に入れることになります。

2. 「政友会寄り」と見られることへの警戒

  • 平沼は能力の高さから原敬内閣などで法相への入閣を打診されますが、これをすべて辞退しています。

  • これは、特定の政党(政友会など)にべったりな官僚だとみられることを嫌い、あくまで「中立な立場」を装うための巧みなポリティカル・ムーブ(政治的動き)でした。なお、部下の鈴木喜三郎らを介して、原内閣が進めた「陪審制の導入」など司法省の改革には協力していました。

3. 国本社(こくほんしゃ)の急拡大と権力基盤

  • 大正13年(1924年)、平沼を社長として国粋主義団体「国本社」が設立されます。

  • 平沼の経営能力や陸軍などとの人脈により、組織は急速に拡大(最盛期には会員1万人)。

  • 過激な国家主義色をあえて薄め、「儒教道徳の普及」を掲げる巧妙なアプローチを取りました。さらに、司法界(平沼閥)から上がってくる「政治家の汚職や選挙違反の情報」を握ることで、政界における存在感を決定的なものにしました。

4. 枢密院(すうみついん)での活動と「陰謀家イメージ」の定着

  • 大正15年(1926年)からは枢密院副議長に就任。平沼は「枢密院の権限を厳格に守る」という官僚的な姿勢を崩しませんでしたが、これが結果として政党内閣との激しい対立を生みます。

  • 若槻礼次郎内閣との対立:台湾銀行救済のための緊急勅令案を枢密院が否決し、若槻内閣を総辞職に追い込みました(本書では若槻側の対応にも問題があったとされています)。

  • 田中義一内閣への対応:一方で、同じように議会を軽視した田中内閣の「治安維持法改正」には、自身の思想的背景もあって賛成。これが「政友会(田中内閣)を贔屓している」と周囲に受け止められました。

  • こうした恣意的な姿勢から、検事総長時代は「中立」と思われていた平沼が、1920年代を通じて世間から「政権を裏で操る陰謀家(フィクサー)」というイメージで見られるようになっていきました。

(まとめ)

この動画(Part②)では、平沼が検察トップとして政治家をコントロールする術(すべ)を確立し、「国本社」と「司法の情報網」を武器に、政党内閣を裏から脅かす「陰謀家・平沼騏一郎」へと変貌していく大正〜昭和初期のプロセスがわかりやすく解説されています。

次の動画。

要約は以下の通り。

共有いただいたYouTube動画は、田中一平氏による新書案内『平沼騏一郎』の解説パート③(1930年代の「平沼内閣運動」〜1939年の首相就任まで)です。

動画の内容を要約すると、ポイントは以下の4点にまとめられます。

1. 「テロやクーデターは否定」平沼の軍部・国家改造へのスタンス

  • 1930年代前半、日本国内では急進的な「国家改造運動」が盛り上がり、テロやクーデターが頻発しましたが、平沼はこれらを「決して奨励も共鳴もしていなかった」と本書は明確に指摘しています。

  • 平沼が過激な国家主義者に接近した最大の理由は、思想的共鳴以上に「共産主義(赤化)への強い対抗手段」として利用するためでした。

2. 軍の「不満」に配慮した新軍的アプローチ

  • 平沼は、軍の統制(規律)が崩壊しつつある現状を強く危惧していました。そのため、荒木貞夫(皇道派)や加藤寛治(海軍艦隊派)ら、いわゆる軍のタカ派・反主流派に接近します。

  • 平沼の考えは「軍を頭ごなしに抑圧するだけでは、かえって暴走する。軍の不満にも配慮し、彼らの言い分を一定程度聞くことで、軍の統制を回復すべきだ」という進軍的(シンパ)なスタンスでした。

  • この統制回復の一環として、皇族を軍のトップに担ぎ出す「皇族総長・皇族部長(閑院宮や伏見宮の擁立)」の動きにも平沼が深く関わっていたことが本書で明かされています。(※ただし結果としては、皇族は責任を取れないため下格の青年将校が暴走する「下剋上」の風潮を強める皮肉な結果に終わりました)。

3. 「政党内閣」の全否定と「平沼内閣運動」

  • 平沼は「軍の統制が崩壊しかけている根本原因は、政党内閣が軍人を軽視・冷遇しているからだ」と考えました。

  • したがって「政党内閣(憲政の常道)では国家の危機を乗り越えられない」とし、政党色を排除した「非・政党内閣」の樹立を目指します。これにより、1930年代を通じて「平沼を首相に担ぎ出そう」という「平沼内閣運動」が何度も展開されることになりました。

4. 1939年、ついに「平沼内閣」が誕生した舞台裏

  • 1937年に近衛文麿(第1次)内閣が誕生し日中戦争へと突入しますが、泥沼化する戦争の解決の糸口が見えず、近衛は政権運営に行き詰まって気力を失っていきます。

  • 1939年1月、近衛内閣の総辞職に伴い、近衛自身が後継として平沼を強く推したこと、また湯浅倉平内大臣らの推薦もあり、平沼に「大命降下(組閣の命)」が下り、ついに平沼騏一郎内閣が誕生しました。

  • 近衛と平沼の共通点として、第1次世界大戦後の欧米有利な国際秩序(ワシントン体制)に対する強い不満があったことが挙げられます。

(まとめ)

この動画(Part③)では、1930年代の激動期において、平沼が「テロによる破壊」を嫌う官僚的な一線を守りつつも、「軍の不満への配慮」「政党内閣の否定」という独自のロジックを掲げ、近衛文麿の後を受ける形でついに国家の最高権力者(首相)へと上り詰めるまでのドラマが解説されています。

次の動画。

要約は以下の通り。

共有いただいたYouTube動画は、田中一平氏による新書案内『平沼騏一郎』解説の最終回(第4回:平沼内閣の発足から、戦後の東京裁判・A級戦犯、死去まで)です。

動画の内容を要約すると、ポイントは以下の4点にまとめられます。

1. 平沼内閣の発足と「エラスティック(柔軟)」な組閣

  • 1939年1月に発足した平沼内閣の最大の特徴は、平沼が西園寺公望に対し自ら「エラスティック(融通が利く・柔軟)」であると述べた通り、現実的で柔軟な姿勢を見せたことです。

  • 前政権との連続性:第1次近衛文麿内閣が作った予算を議会で通す必要があったため、近衛を無任所大臣として入閣させました。

  • 政党への配慮:政党に不評だった末次信正内務大臣を更迭して木戸幸一を起用し、さらに衆議院議員から政務官を登用するなど、議会対策として政党の懐柔に努めました。

  • 施政方針演説では「議会や政党の尊重」を掲げ、記者会見でも笑顔を見せるなど、従来の「冷徹な陰謀家」というイメージの払拭を図っています。一方で、この柔軟(日和見的)な姿勢は、身内である国家主義者(真崎甚三郎など)からは「裏切り者」と批判されました。

2. 「行動主義」の中途半端さと内閣の総辞職

  • 平沼は自身の政治信念として、全体主義でも英米風の民主主義でもない「行動主義(こうどうしゅぎ)」を唱えましたが、その内容は非常に抽象的でした。「全体のことも個人のことも考える」といった曖昧な説明に終始し、具体的なビジョンを示せなかったことは彼の政治家としての限界であったと指摘されています。

  • また、内閣の最重要課題であった「日独伊三国同盟」の結締をめぐり、同盟推進派の陸軍と、英米との決定的な対立を避けたい海軍・外務省との板挟みになり、方針を決定できませんでした。

  • その最中、同盟の仮想敵国だったソ連がドイツと突如手を結ぶ「独ソ不可侵条約(1939年8月)」が締結されます。これに強い衝撃を受けた平沼は、かの有名な「欧州の天地は複雑怪奇」という言葉を残し、在任わずか半年強で内閣総辞職に追い込まれました。

3. 内閣総辞職後の動向と東京裁判(A級戦犯)

  • 内閣総辞職後も、平沼は枢密院議長や第2次近衛内閣の内相として国政の中枢に残り続けました。しかし、東条英機内閣による対米開戦の決定に対しては、戦争の見通しの甘さを厳しく批判するなど、最後まで合理的・官僚的な視点から無謀な開戦には慎重な姿勢を取りました。

  • 戦後、東条内閣の開戦に批判的であったにもかかわらず、平沼は「長年にわたり国家中枢で軍部の台頭を容認・支援し続けた責任(国家の指導者としての継続的な関与)」を問われ、連合国からA級戦犯として逮捕されます。東京裁判では終身禁錮刑の判決を受け、1952年に服役中の病気により85歳で病没しました。

4. 平沼騏一郎が遺した「戦争の原因」への洞察

  • 平沼は生前、明確な戦争責任の告白こそしませんでしたが、自身が亡くなる約1ヶ月前に「日本がなぜ無謀な戦争に突入してしまったのか」について非常に興味深い分析(回顧)を残しています。

    1. 西園寺公望ら「元老」への恨み:西園寺らが政党や財閥を甘やかしたことで政治が腐敗し、それを正そうとした自分のような保守勢力を宮中から排除したことが、政治の混迷を招いたという主張(西園寺への個人的な怨恨も含まれます)。

    2. 指導者の枯渇:かつての山県有朋(陸軍)や山本権兵衛(海軍)のように、大局的な政治・国際情勢を理解した上で、自軍の暴走を力づくで抑え込めるだけの「巨頭(強力な指導者)」が軍部にいなくなったことが最大の原因である、という指摘です。

(全体のまとめ)

4回にわたる解説の締めくくりとして、本書は平沼騏一郎を「単なるファナティック(狂信的)な右翼」ではなく、「非常に優秀な実務能力を持ち、リアリズム(現実主義)も備えていた官僚」として描いています。しかし、それゆえに周囲に配慮しすぎて三国同盟問題などの大局的な決断を下せず、結果として軍部の暴走を止められないまま自らもA級戦犯として激動の生涯を終えることになった、という彼の限界と悲劇がまとめられています。

 

明治から昭和の激動期に「最強の政治的武器」を手に入れ、のちに首相にまで上り詰めた平沼騏一郎。彼の築いた司法閥や検察の権力構造は、堀江氏が指摘する現代の「起訴便宜主義の弊害」や、司法の驕りといった問題にも地続きで繋がっています。

「巨悪を眠らせない正義」の裏にある「政治を動かす危うさ」――。歴史から見えてくる現在の日本の検察や司法のあり方は、決して過去の遺物ではなく、今を生きる私たち自身が常に注視し、問い直していかなければならない現代進行形の課題であると言えます。

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