今回は、最近全国の神社でのイベントにお誘いいただいている久野潤さんの動画から。
大宮氷川神社が話題の中心です。
武蔵一宮について。
「武蔵一宮(むさしいちのみや)」は、旧国名(地理的枠組み)である「武蔵」と、神社の格式・序列(社格制度)を表す「一宮」が合わさった言葉です。1. 「武蔵(むさし)」とは
古代の律令制によって定められた令制国(旧国名)の一つです。
地理的範囲: 現在の東京都(島嶼部を除くほぼ全域)、埼玉県(ほぼ全域)、神奈川県の一部(川崎市全域、横浜市の東部・北部など)にまたがる広大な地域を指します。 位置づけ: 7世紀後半に成立し、1871年(明治4年)の廃藩置県まで公的な地域名として使われ続けました。東海道に属する大国(たいこく)として、政治・軍事・交通の要衝でした。2. 「一宮(いちのみや)」とは
その国(令制国)の中で「最も社格・格式が高いとされる神社」を指す称号です。
成り立ち: 平安時代中期から中世にかけて定着しました。中央朝廷から地方に派遣された長官(国司)は、着任時に国内の神社を巡拝する慣わしがありました。しかし、広大な国内の全神社を回るのは難しいため、「筆頭として最も格式が高い神社(一宮)」を定め、最初に参拝するようになったのが始まりです。 二宮・三宮への展開: 一宮に次いで参拝する神社を「二宮(にのみや)」、次を「三宮(さんのみや)」と順位づけ、地域全体の鎮守ネットワークを形成しました。3. 「武蔵一宮」が意味するもの
「武蔵国(東京・埼玉・神奈川北東部)という広域エリアの中で、筆頭として最高位の社格を与えられた神社」を指します。具体的には、埼玉県さいたま市大宮区に鎮座する氷川神社(大宮氷川神社)を指します(※地名の「大宮」も、この大いなる宮=氷川神社に由来します)。なお、古代の多摩地域にあった「小野神社」(東京都多摩市・府中市)を一宮とする古い伝承や併存説もありますが、室町時代から近世以降、そして明治維新の「親祭」を経て、国家的に筆頭の武蔵一宮として公認されたのが大宮の氷川神社です。
一宮、二宮、三宮、などについて。
「一宮(いちのみや)」「二宮(にのみや)」「三宮(さんのみや)」などは、古代から中世の日本において、地域(令制国=旧国)の中で格式の高い神社に付けられた序列・社格のことです。
現代でも全国各地の地名や駅名、人名(苗字)として広く残っています。その歴史や仕組み、具体例について詳しく解説します。
1. 制度の成り立ちと目的
なぜ順位がつけられたのか?
平安時代、中央政府から地方(令制国)へ派遣された長官を国司(こくし/受領)と呼びました。 国司には着任時、管轄する地域内の神社を巡拝し、神々に挨拶と国の安寧を祈願する公務(神拝)がありました。
しかし、国の中には無数の神社があり、すべてを巡るのは大変な手間と時間がかかります。そこで、「その国で最も有力で格式の高い神社」を定めて最優先で参拝する慣例が生まれました。
最初に参拝する最も格式の高い神社:一宮(一の宮)
次に参拝する神社:二宮(二の宮)
3番目に参拝する神社:三宮(三の宮)
このように、参拝順や社格の高さに応じて「四宮」「五宮」……と順位づけがなされていきました。
「総社(そうじゃ)」の誕生
さらに巡拝を効率化するため、国府(役所)の近くに国内の主要な神社の神様を一箇所に集めて合祀した「総社(惣社)」が作られるようになり、国司はまず総社に参拝し、次いで一宮に赴くという形式も定着しました。
2. どこまで続いているのか?(何宮まであるのか)
国によってどこまで序列が定められていたかは異なります。
一宮のみが明確に定まっていた国も多い。
一般的には二宮・三宮あたりまで定めている国が多く、中には四宮・五宮・六宮まで記録が残る国もあります。
最も多い例としては、旧・安芸国(広島県)などに八宮や九宮の伝承が見られます。
※なお、神戸市の「一宮神社〜八宮神社」は令制国の序列ではなく、生田神社の周辺を守護する裔社(えいしゃ)としての巡拝順です。
3. 主な地域ごとの具体例
① 武蔵国(現在の東京・埼玉・神奈川北東部)
武蔵国では、国府(現・東京都府中市)にあった大國魂神社(武蔵総社六所宮)に一宮から六宮までの神々が祀られており、序列がはっきりしています。
一宮:氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区)※多摩市の小野神社とする説も併存
二宮:金鑽神社(かなさなじんじゃ/埼玉県神川町)※あきる野市の二宮神社とする説も
三宮:氷川女体神社(埼玉県さいたま市緑区)
四宮:秩父神社(埼玉県秩父市)
五宮:金佐奈神社(埼玉県神川町)
六宮:杉山神社(神奈川県横浜市緑区西八朔町)
② 相模国(現在の神奈川県中・西部)
一宮:寒川神社(高座郡寒川町)※鶴岡八幡宮とされる場合もあります
二宮:川勾神社(かわわじんじゃ/中郡二宮町)
三宮:比々多神社(ひびたじんじゃ/伊勢原市)
四宮:前鳥神社(さきとりじんじゃ/平塚市)
③ 尾張国(現在の愛知県西部)
一宮:真清田神社(ますみだじんじゃ/一宮市)
二宮:大縣神社(おおあがたじんじゃ/犬山市)
三宮:熱田神宮(名古屋市熱田区)※格式は極めて高いが、一宮とは別格の扱いをされることもありました
4. 現代に残る地名・苗字への影響
神社そのものだけでなく、神社を中心とした門前町や周辺地域が発展したことで、地名や苗字として定着しました。
一宮(いちのみや)
愛知県一宮市(真清田神社に由来)
千葉県長生郡一宮町(上総国一宮・玉前神社に由来)
二宮(にのみや)
神奈川県中郡二宮町(相模国二宮・川勾神社に由来)
栃木県にあった旧・二宮町(二宮尊徳ゆかり、現在は真岡市)
苗字の「二宮」
三宮(さんのみや)
兵庫県神戸市の中心繁華街「三宮」(三宮神社に由来)
神奈川県伊勢原市の地名「三ノ宮」(相模国三宮・比々多神社周辺)
四宮(しのみや / よつみや)
東京都杉並区の地名「四面道(しめんどう)」の元となった四宮
神奈川県平塚市の地名「四之宮」(前鳥神社周辺)
京都府京都市山科区の「四ノ宮」
5. 一宮の選定を巡る特徴
一宮は法律で一律に厳密指定されたわけではなく、平安末期から中世にかけての「慣習」「地域の信仰の強さ」「政治的影響力」によって自然発生・定着した側面が強いため、以下のような特徴があります。
一国に複数の「一宮」が存在することがある
時代によって勢力が入れ替わったり、南北朝の対立などで双方が異なる神社を一宮と主張したりしたため、ひとつの国に2〜3社の一宮が存在する地域(例:越後国の一宮である弥彦神社と居多神社など)が珍しくありません。
「全国一の宮会」
現代では、旧令制国の由緒ある一宮格の神社が集まり、「全国一の宮会」を組織して参拝ルートの整備や御朱印帳(一の宮専用朱印帳)の発行などを行っています。
そもそも氷川神社とは。
氷川神社(ひかわじんじゃ)とは、埼玉県・東京都を中心とする旧武蔵国エリアに広く分布する神社群、およびその総本社である「武蔵一宮 氷川神社(大宮氷川神社)」のことです。
関東の地域信仰・歴史において極めて重要な神社であり、その特徴は主に以下の点にまとめられます。
1. どこにあるのか?(総本社と分布)
総本社(本拠地):
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町に鎮座する武蔵一宮 氷川神社です。
「大いなる宮居(みやい)」があることから、周辺の地名が「大宮」と呼ばれるようになりました。
約2kmに及ぶ日本屈指の長い参道(氷川参道)を持つことでも知られます。
分社の広がり:
埼玉県・東京都を中心に約280社の氷川神社が存在します(赤坂氷川神社、川越氷川神社など)。主に荒川水系沿いに集中して建立されているのが地理的特徴です。
2. 何の神様を祀っているのか?(御祭神)
出雲神話(古事記・日本書紀)ゆかりの3柱の神様を祀っています。
須佐之男命(すさのおのみこと):主祭神。ヤマタノオロチ退治で知られる武勇・厄除けの神。
稲田姫命(いなだひめのみこと):スサノオの妻。
大己貴命(おおなむちのみこと):オオクニヌシの別名。国造り・縁結び・福徳の神。
夫婦神とその子孫神を祀ることから、古くから「厄除け」「家内安全」「縁結び」「商売繁盛」の神として篤く信仰されています。
3. 歴史と由来(なぜ関東に出雲の神様がいるのか?)
創建の伝承:
社伝によると、第5代・孝昭天皇の時代(紀元前)に創建されたと伝えられ、2400年以上の歴史を持つとされています。
出雲との結びつき:
古代、出雲地方から関東(武蔵国)に移住・開拓を行った一族(武蔵国造・むさしのくにのみやつこ)が、故郷の神であるスサノオを祀ったのが始まりとされています。
「氷川(ひかわ)」という社名の語源についても、出雲の母なる川である「斐伊川(ひいかわ)」にちなんで名づけられたという説が有力です。
見沼(水神信仰)との関わり:
かつて大宮一帯に広がっていた広大な水源「見沼(みぬま)」のほとりに位置し、古代の治水・農業用水・水神信仰と深く結びついて発展しました。
4. 歴史上の位置づけ
武家からの崇敬:
平安時代の平将門の乱平定の祈願、鎌倉時代の源頼朝による社殿造営、戦国時代の北条氏、江戸時代の徳川将軍家など、東国を支配した名だたる武将たちが代々手厚く保護しました。
明治維新と「武蔵一宮」:
明治元年(1868年)、明治天皇が京都から東京に移る(東幸)際、東京および武蔵国の総鎮守として真っ先に氷川神社に行幸し、親祭を行いました。このときに出されたのが、国家の方針として祭祀と政治の一致を宣言した「祭政一致の詔(氷川神社親祭の詔)」です。
まとめ
氷川神社とは、「古代に出雲系の一族が関東の荒川流域を開拓して祀った水と農業・厄除けの神社」であり、中世の武士団、そして近代の明治天皇に至るまで、「武蔵国(東京・埼玉)のトップ(一宮)として歴代の統治者が最も重視してきた神社」といえます。
ようやく本題の動画です。
この動画で語られている話を、専門知識がなくてもスッと入るように要点を噛みくだいて説明します。全体を一言で言うと、「明治維新は単なる西洋化ではなく、『大昔の日本の原点に戻ろう』とした運動であり、それを象徴する超重要イベントが大宮の氷川神社で行われたのに、みんな見落としすぎている」という話です。1. なぜ明治天皇は大宮(氷川神社)に行ったのか?
1868年、明治維新が起きて都が京都から東京(東の都)へ移されました。 このとき、明治天皇が東京へ向かう途中で真っ先に立ち寄って祈りを捧げた場所が、埼玉県の大宮にある「武蔵一宮 氷川神社」でした。これには明確なお手本がありました。
約1000年前の平安時代: 桓武天皇が京都に都を移した際、その土地の神様(山城国の一宮である賀茂神社)に祈りを捧げた。 明治時代: 明治天皇もまったく同じように、新しい都(東京・武蔵国)の最も位の高い神様(氷川神社)に祈りを捧げた。「1000年前の先例をそのまま踏襲して実行できる」ということ自体が、日本の歴史の途切れなさ(連続性)を表していると解説しています。2. 出された方針「祭政一致の詔(みことのり)」とは?
この氷川神社で行われた祈りとともに出された宣言文で、明治天皇は次のようなメッセージを発信しました。
「本来、神様をまつること(祈り)と政治はひとつだった」 日本語の「まつりごと」という言葉が示す通り、祈りと政治は表裏一体の基本方針(祭政一致)だったはず。 「でも、武士の時代(鎌倉〜江戸)のせいで乱れてしまった」 武士が実権を握ってからは、天皇をないがしろにしたり、神道より仏教(お寺)ばかりが優先されたりして、国の根本となる秩序や祈りがおろそかになってしまった。 「だから今、大昔の正しい姿に戻して新しい国づくりをする」 天皇自らが東京の地で政治を執り行い、神様への祈りも復活させて、本来の日本の姿を取り戻す。つまり、明治維新(王政復古)は単に「これからは近代化・西洋化して進歩していこう」というだけでなく、「武士の時代に崩れてしまった古代の日本の精神を取り戻そう」というリセットの試みでもあったわけです。3. 動画の語り手(久野氏)が本当に言いたいこと
「うわべの議論ばかりで、根本の事実が抜けている」 テレビやネットで「明治維新とは何だったのか」を議論する人たちの多くが、この氷川神社での出来事や「祭政一致の詔」を知らない(あるいはスルーしている)。 「国の原点を知ろう」 右寄り・左寄りといった思想の違いに関係なく、「当時の明治天皇や政府が何を国の方針として宣言したのか」という第一級の歴史事実をまず知らなければ、まともな歴史の議論はできない。 地元の神社(氷川神社)が実は日本の近代史の幕開けにおいて決定的な役割を果たしていたことを、もっと多くの人(特に地元の人や政治家)に知ってほしい。
祭政一致の詔について
明治維新期における「祭政一致の詔(みことのり)」の要点を簡潔にまとめました。1. 概要
基本理念: 神々への祈り(祭祀)と国家統治(政治=まつりごと)は一体不可分であるとする古代日本の理念を取り戻し、近代国家建設の基本原則に据える宣言。 背景: 鎌倉時代以来の武家政治や仏教中心の慣例で衰退した朝廷の祭祀を復興し、「神武創業の精神」へ回帰すること(王政復古)を目的としました。2. 主な2つの詔
項目 明治元年(1868年)「氷川神社親祭の詔」 明治3年(1870年)「大教宣布の詔」 発令時期 明治元年10月17日(旧暦) 明治3年1月3日(旧暦) 契機・目的 東京行幸(東幸)に際し、武蔵国一宮である大宮・氷川神社を親祭 神祇官を重視し、神道の理念を国家統合・国民教化の精神的支柱とする 主導者・起草 明治天皇(副島種臣、福羽美静ら神祇官僚が推進) 福羽美静(津和野藩出身)や平田派国学者グループ 骨子 ・武家支配で祭祀が衰えたことを憂慮
・東京親政とともに祭祀を復興し「祭政一致の道」を回復する ・天神天祖以来の神道を「大教」として全国に宣布
・宣教使を置き、国民教化を推進する3. 歴史的意義と帰結
維新の二面性: 「富国強兵」「西洋化(文明開化)」を進める一方で、思想・国家観の根底には「古代の祭祀共同体への回帰」という強烈な復古主義が組み込まれていました。 その後の変遷: 初期の実質的な神道国教化路線(神仏分離令や廃仏毀釈の混乱)は、仏教界の反発や欧米列強の信教の自由要求に直面し、やがて教部省の設置、そして宮中祭祀と行政を制度的に分ける「国家神道」体制へと再編されていきました。
今回、久野潤さんの動画を通じて改めて「武蔵一宮 氷川神社」と「祭政一致の詔」の歴史的背景を整理してみました。
明治維新というと、どうしても「富国強兵」や「西洋化・近代化」といった一面ばかりに目が向きがちです。しかしその根底には、武家政権によって形骸化していた古代日本の精神的な原点、すなわち「祈り(祭祀)」と「政治(まつりごと)」の一体性を取り戻そうとする強烈な回帰の意志が組み込まれていました。
現代の政治においても、目先の対立や表面的なスローガンにとらわれず、「わが国がどのような歴史の連続性の上に成り立っているのか」という根本の一次情報・公の記録に立ち返る姿勢が何よりも欠かせないと強く感じます。
身近な地域に鎮座する神社が、実は近代日本の大きな転換点と深く結びついていたという事実は、歴史や政治を考える上で非常に示唆に富んでいます。皆さんもぜひ一度、久野さんの動画をご覧いただき、日本の歴史の深層について考えてみてはいかがでしょうか。

