スポンサーリンク

軍部大臣現役武官制の仕掛け人? 次田大三郎内閣法制局長官は野坂参三の義理の兄

今回は2・26事件について。YouTubeの高校日本史・世界史さんの動画から。

要約は以下の通り。

動画「【昭和時代】249 二・二六事件とは?わかりやすく簡単に【日本史】」について、詳細に要約します。

この動画は、1936年(昭和11年)に発生した大日本帝国陸軍による史上最初で最後のクーデター未遂事件「二・二六事件」について、その背景から結末、歴史的影響までを分かりやすく解説しています。


1. 事件の背景:農村の窮状と青年将校の決意

事件の根底には、当時の日本の深刻な社会不安がありました。

  • 農村の貧困: 世界恐慌の影響で農村は極めて貧しく、娘を身売りしなければならない家庭も多くありました [01:21]。

  • 青年将校の同情: 兵士の多くは農村出身であり、彼らを直接指導する青年将校たちは、部下たちの悲惨な家庭環境を知ることで、「日本を立て直さなければならない」という強い危機感を抱くようになりました [01:45]。

2. 陸軍内部の対立:皇道派と統制派

陸軍内では、改革の手法を巡って2つの派閥が激しく対立していました [05:07]。

  • 皇道派: 武力によって特権階級(元老・重臣・財閥など)を排除し、天皇と国民を直接つなげる「昭和維新」を断行しようとする過激な勢力。青年将校から絶大な支持を受けていました [05:42]。

  • 統制派: 武力行使を否定し、軍の統制を保ちながら合法的な手段で国家改造を進めようとする勢力 [05:53]。

  • 対立の激化: 皇道派の有力者だった真崎甚三郎の更迭などをきっかけに、皇道派の相沢三郎が統制派リーダーの永田鉄山を殺害する「相沢事件」が発生し、両派の緊張は頂点に達しました [07:51]。

3. 事件の発生:1936年2月26日

青年将校たちは約1,500名の兵を率い、東京の中枢部を襲撃・占拠しました [08:35]。

  • 襲撃された主な人物:

    • 岡田啓介(内閣総理大臣): 義弟の身代わりにより、奇跡的に救出されました [09:12]。

    • 斎藤実(内大臣): 寝室で一斉射撃を受け、凄惨な最期を遂げました [09:43]。

    • 高橋是清(大蔵大臣): 寝込みを襲われ、「天誅」の叫びとともに殺害されました [11:32]。

    • 鈴木貫太郎(侍従長): 重傷を負うも、夫人の必死の制止により一命を取り留めました [10:52]。

  • 占拠: 反乱軍は首相官邸や警視庁、陸軍省などを占拠し、一時的に東京の心臓部は麻痺状態となりました [11:57]。

4. 鎮圧への動きと昭和天皇の激怒

当初、陸軍首脳部は反乱軍への対応を決めかねていましたが、事態を一変させたのは昭和天皇の強い意志でした。

  • 天皇の激怒: 信頼する重臣たちを殺害された昭和天皇は激怒し、「自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たる」とまで発言。即時鎮圧を厳命しました [17:14]。

  • 戒厳令と包囲: 2月29日までに2万4000の軍勢が反乱軍を包囲しました [18:39]。

  • 「下士官兵に告ぐ」: 「今からでも遅くないから原隊へ帰れ」という有名なラジオ放送やアドバルーン、ビラによる説得が行われました [19:08]。

  • 帰順: 天皇の命令(勅命)が下ったことで、自分が「逆賊」になることを恐れた兵士たちは、一発の弾丸も撃つことなく続々と投降しました [20:04]。

5. 事件の結果とその後

  • 処刑: 指導した青年将校たちは逮捕され、弁護人なしの軍法会議で死刑が言い渡されました [20:10]。

  • 軍部の発言権拡大: 事件後、皇道派は没落し、代わって主導権を握った統制派が「軍部大臣現役武官制」を復活させるなどして、政治への影響力を急速に強めました [20:21]。

  • 戦争への道: この事件を機に、日本は軍部主導の体制が固まり、泥沼の戦争へと突き進んでいくことになります [20:33]。

この動画は、単なる事件の経過だけでなく、当時の人々の感情や派閥抗争の力学を丁寧に描いており、二・二六事件が日本の運命をどう変えたのかを深く理解できる内容となっています。

今年は2・26事件から90年となります。声明文を出しました。

声明:二二六事件から九十年に寄せて――「国家革新」の幻想とインテリジェンスの教訓

2026年(令和8年)2月26日
前参議院議員 浜田 聡

昭和十一年二月二十六日、わが国の憲政を揺るがした未曾有の動乱「二二六事件」から、本日で九十年の節目を迎えました。

この悲劇により犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げます。

九十年という歴史の岐路に立ち、私たちはこの事件を単なる過去の物語としてではなく、現代にも通じる「構造的な教訓」として直視しなければなりません。

当時、日本社会は長引くデフレ不況と農村の窮乏という深刻な事態に直面していました。

歴史の真実を紐解けば、この国民の切実な不満を巧妙に利用し、軍部の中枢にまで社会主義的思想を浸透させていた国際共産主義運動(コミンテルン)の工作が存在した事実に突き当たります。

特に、陸軍省軍務局などの「革新派」勢力は、不況に苦しむ世論を背景に、私有財産の否定や統制経済を目指す過激な言説を確信犯的に鼓吹しました。

その思想的象徴こそが北一輝であり、彼の唱えた国家改造論は、天皇親政の美名に隠れた社会主義的な「偽装された革新」に他なりませんでした。

この歴史の最大の悲劇は、卓越したリフレ政策(通貨供給量を増やして景気を刺激し、デフレ脱却を目指す経済政策)によって日本を窮状から救おうとしていた高橋是清蔵相が、その真意を理解されぬまま暗殺されたことです。

高橋蔵相の殉職後、後任の馬場鍈一蔵相は軍部の要求に屈する形で、大幅な増税と軍事費膨張、そして経済の国家統制へと舵を切りました。

これこそが「国家革新」を標榜した勢力が真に狙っていた社会主義的改編であり、テロによって救国の経済政策が潰された結果、日本は破局的な全体主義へと突き進むこととなったのです。

なぜ、当時の指導層はこの危うい本質を見抜けなかったのか。

そこには、天皇の真意や憲政を無視し、自らの目的のために天皇を絶対的な独裁者として捉える「歪んだ天皇観」がありました。

これに加え、国内外の謀略や情報の真実を見極める「インテリジェンス(諜報・情報活動)」能力の致命的な欠如が、事態を破局へと導いた最大の要因です。

九十年前のこの教訓は、形を変えた情報戦や思想工作が激化する現代において、かつてない重みを持って私たちに迫っています。

私はこれからも、情報分析能力の重要性を訴え続けてまいります。

歴史の真実を直視し、わが国の自由と伝統を、内外からのあらゆる脅威から守り抜く不断の努力を続けていかなければなりません。

コミンテルンの工作については江崎道朗さんの著書をご参照ください。

コミンテルンの謀略と日本の敗戦 (PHP新書) Kindle版 江崎 道朗 (著)

要約は以下の通り。

動画「コミンテルンの謀略と日本の敗戦~軍部大臣現役武官制はスパイが仕組んだ!?(江崎道朗)」について要約します。

この動画では、文芸評論家の江崎道朗氏が、戦前の日本における軍部の暴走や敗戦の裏側に、国際共産主義組織「コミンテルン」による工作があった可能性について、自身の著書に基づき解説しています。


1. 現代の自衛隊と戦前の「縛り」

  • 自衛隊の現状: 元潜水艦艦長の中村秀樹氏の著書を引き合いに、現在の自衛隊が法律や運用、事務方(背広組)による制服組への強い統制によって「がんじがらめ」になっている現状を指摘しています [01:10]。

  • 吉田茂の意図: この体制の源流は、戦後に自衛隊(警察予備隊)を発足させた吉田茂にあります。吉田は戦時中、軍部に弾圧された経験から、旧軍の幹部が再び政治的実権を握ることを極度に恐れ、官僚による監視体制(文民統制の極端な形)を作り上げました [02:48]。

2. 「軍部大臣現役武官制」の謎

  • 制度の弊害: 1936年に復活したこの制度により、陸海軍が大臣を出さなければ内閣が成立しなくなり、軍部の政治的発言権が圧倒的に強まりました。これが軍部独裁と敗戦への道だったと一般に言われています [07:30]。

  • 仕掛け人の正体: 江崎氏は、この制度復活を主導した当時の内閣法制局長官・次田大三郎に注目します [08:48]。次田は、コミンテルンの幹部で日本共産党のリーダーだった野坂参三の義理の兄であり、野坂の逃亡や活動を支援していた人物でした [10:29]。

3. コミンテルンの影響工作(インテリジェンス・ヒストリー)

  • 「対ソ警戒派」の排除: 次田が主導した制度復活の真の狙いは、ソ連を強く警戒していた軍内の「皇道派(荒木貞夫、真崎甚三郎ら)」を排除(パージ)することにありました [09:43]。

  • 野坂参三の報告: 野坂は実際にモスクワで「自分たちは対ソ警戒派を排除するために努力している」とコミンテルンに報告していました。つまり、日本の軍部独裁を強めたとされる制度は、実は共産主義勢力が「対ソ警戒派」を追い落とすために仕組んだ側面があるという視点です [12:08]。

4. 歴史認識への問題提起

  • 欠落した視点: 日本の戦後史学やメディアでは、コミンテルンや共産党による政府・軍・メディアへの浸透工作がほとんど議論されてこなかったと批判しています [13:25]。

  • インテリジェンスの重要性: 世界では「インテリジェンス・ヒストリー(情報工作の歴史)」という学問が確立されているが、日本はその視点が欠落しているため、戦前の真実が見えなくなっていると主張しています [18:03]。

  • 今後の展望: ロシア革命100年などの節目に合わせ、一方的な「軍部暴走論」だけでなく、外部からの工作を含めた多角的な歴史検証が必要であると結んでいます [18:47]。


この動画は、従来の「軍部の独走がすべて」という歴史観に対し、外部勢力によるインテリジェンス工作という視点から、日本の敗戦に至るまでの構造を問い直す内容となっています。

二・二六事件後の次田大三郎氏の行動に注目です。

次田大三郎と二・二六事件の関連は、事件そのものへの関与というよりも、**「事件後の戦後処理と、その後の日本の進路を決定づけた制度改正」**という文脈で極めて重要な役割を果たしています。

江崎道朗氏の視点(インテリジェンス・ヒストリー)を踏まえると、単なる官僚としての動き以上の「戦略的意図」が見えてきます。

1. 事件直後の「広田弘毅内閣」におけるキーマン

次田大三郎は、二・二六事件の収束直後に発足した広田弘毅内閣で内閣法制局長官に就任しました。法制局長官は「法の番人」であり、内閣の政策を法的に形作る実務上のトップです。

事件によって重臣たちが倒れ、政治が空白状態になる中で、次田は実務面から新体制を構築する中心人物となりました。

2. 「軍部大臣現役武官制」の復活(1936年5月)

次田の最も大きな足跡は、軍部大臣現役武官制の復活を主導したことです。

  • 表面上の理由: 二・二六事件を引き起こした「皇道派」の将校たちが退役した後に大臣として復帰し、再び政治工作を行うのを防ぐため(=軍の規律維持)。

  • 実際の結果: 陸海軍が大臣を出さなければ内閣が成立・存続できなくなるため、軍部が内閣の生殺与奪の権を握る「軍部独裁」の法的武器となってしまいました。

3. 「対ソ警戒派(皇道派)」のパージ

ここが江崎説の核心ですが、次田による制度復活の真の狙いは**「皇道派(対ソ警戒派)の完全排除」**にあったと評価されます。

  • 二・二六事件で反乱を起こしたのは皇道派の青年将校でした。

  • 次田はこの「軍の規律を正す」という大義名分を使い、荒木貞夫や真崎甚三郎といったソ連を最大の脅威とみなしていた皇道派の重鎮たちを予備役に追い込み、二度と政権中枢に戻れないようにしました。

4. 野坂参三(コミンテルン)との奇妙な繋がり

次田大三郎を評価する上で避けて通れないのが、実妹の夫である**野坂参三(日本共産党幹部・コミンテルン中央委員)**との関係です。

  • 次田は、野坂の海外逃亡を実質的に手助けした疑いがあります。

  • 「ソ連を最大の敵」とする皇道派が次田の手によって葬り去られたことは、結果としてソ連やコミンテルンにとって最大の利益となりました。

  • これにより、陸軍の主導権は「革新官僚」と親和性の高い統制派(国家社会主義的な統制経済を志向するグループ)へと完全に移ることになります。


総評

次田大三郎は、二・二六事件という未曾有の混乱を**「法的・制度的なクレンジング(洗浄)」**の機会として利用した人物と言えます。

彼が主導した現役武官制の復活は、一見すると「過激派(皇道派)の再発防止」という正論に見えますが、その実態は**「対ソ警戒派を政治から一掃し、軍部と革新官僚が結託して社会主義的な戦時体制へ突き進むためのゲートを開いた」**という、極めて高度な(あるいは意図的な)政治工作であった可能性が高いのです。

歴史の教科書では「軍部の横暴」として一括りにされがちですが、次田という官僚の動きに焦点を当てると、二・二六事件は**「日本のインテリジェンスが敗北し、工作活動によって国家の舵がソ連・中国との全面対決(敗戦への道)へ切られた転換点」**としての側面が浮き彫りになります。

二・二六事件から、次田大三郎氏の行動の歴史意義を知る機会になれば幸いです。

↓もしよろしければ応援クリックお願いします。
人気ブログランキング

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク