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桂園時代の教訓?

今回は桂太郎と西園寺公望の桂園時代について。

今の野党第一党の体たらくでも日本が先進国でいられるのはかつての高度経済成長時代の貯金のおかげでしょう。

この桂園時代の政治を今見直すことは意義があると思います。

参考までに。1874年に民選議院設立の建白書が提出されます。

今回はその後の1900年代に入っての話です。

YouTube動画を共有します。

要約は以下の通り。

動画「【明治時代】233 桂園時代と大逆事件 桂太郎&西園寺公望【日本史】」の内容を要約します。

この動画では、明治時代後期から大正時代にかけて、桂太郎と西園寺公望が交互に総理大臣を務めた「桂園時代(けいえんじだい)」の政治と社会情勢について解説されています。

1. 桂園時代の始まりと背景 [00:01]

  • 桂園時代とは: 山県有朋の後継者である桂太郎(藩閥勢力)と、伊藤博文の後継者である西園寺公望(政党勢力・立憲政友会)が、妥協を図りながら交互に政権を担当した時代です [01:44]。

  • 政権交代の密約: 日露戦争後の国内の混乱を避けるため、桂と政友会の原敬との間で、戦争協力の見返りに政権を譲るという話し合いが行われました [02:32]。

2. 第1次 西園寺内閣と財政難 [03:45]

  • 軍備拡張計画: ロシアやアメリカに対抗するための「帝国国防方針」が策定されましたが、日露戦争による莫大な借金と賠償金が得られなかったことによる財政難から、計画は難航しました [04:04]。

  • 国民の負担: 戦争中からの増税が継続され、国民の生活は限界を迎えつつありました [05:44]。これに対し、原敬は行政改革(軍政廃止運動など)を通じて藩閥勢力の切り崩しを図りました [06:06]。

3. 社会主義運動の台頭と弾圧 [07:25]

  • 社会主義政党の誕生: 西園寺内閣の比較的穏健な姿勢により、日本初の合法的な社会主義政党「日本社会党」が結成されました [07:36]。

  • 赤旗事件と総辞職: 社会主義運動が過激化する中で起きた「赤旗事件」を受け、山県有朋ら藩閥勢力が西園寺を批判。退陣へと追い込み、第2次 桂内閣が成立しました [09:04]。

4. 第2次 桂内閣と大逆事件 [10:01]

  • 戊辰詔書(ぼしんしょうしょ): 戦後の目標を見失った社会の混乱を鎮めるため、節約と勤勉による国力増強を国民に促しました [10:37]。

  • 大逆事件: 天皇暗殺を計画したとされる宮下太吉らが逮捕されると、政府は幸徳秋水ら無実と思われる社会主義者も一斉に検挙し、12名を死刑に処しました [11:23]。

  • 社会主義の冬の時代: 特別高等警察(特高)が設置され、社会主義運動は激しい弾圧を受けることとなりました [11:51]。

5. 明治時代の終焉 [12:39]

  • 世代交代: 桂太郎は元老(山県ら)の意向を仰がずに西園寺を後継に推薦するなど、政治の主導権が次の世代へと移り始めました [12:12]。

  • 明治天皇の崩御: 1912年、明治天皇の崩御とともに明治時代が幕を閉じ、日本は新しい「大正時代」へと向かっていくことになります [12:45]。

別の動画。

要約は以下の通り。

動画「第9週2話桂園時代〜ニコポン政治家の情意投合【CGS倉山満】」の内容を要約します。

この動画では、明治後期から大正にかけての「桂園時代(けいえんじだい)」を中心に、当時の政治の実態や議会と内閣の攻防について、倉山満氏が解説しています。

1. 予算を巡る衆議院と内閣の攻防 [01:29]

  • 衆議院の強大な権限: 当時の憲法下では、衆議院が予算案の成否を事実上握っており、内閣がどれほど強力な官僚組織(内務省・大蔵省)や軍を背景にしていても、衆議院が反対すれば内閣は立ち行かなくなる構造でした [01:50]。

  • 「初期不良」の議会運営: 日露戦争前後の議会は非常に荒れており、増税反対を掲げる政党勢力と、国力を維持したい政府側が激しく対立。議会をまとめるのは至難の業でした [03:42]。

2. 伊藤博文の苦悩と政党結成 [07:46]

  • 隈板内閣(わいはんないかく)の失敗: 伊藤博文は、野党勢力(板垣退助・大隈重信)に政権を投げ出しましたが、彼らは内部抗争(ポスト争い)で自滅。外交面でもアメリカへの宣戦布告を口にするなど、無責任な政権運営が露呈しました [08:29]。

  • 立憲政友会の結成: これに懲りた伊藤は、自ら「立憲政友会」を結成。官僚組織と政党の融合を図り、安定的な政権運営を目指すことになります [10:22]。

3. 桂園時代の成立と「ニコポン政治」 [11:01]

  • 桂太郎と西園寺公望: 山県有朋の後継者である桂太郎と、伊藤博文の後継者である西園寺公望が、約10年間にわたり交互に政権を担当し、政治の安定をもたらしました [12:17]。

  • ニコポン政治家・桂太郎: 桂太郎は、ニコニコと笑いながら相手の肩をポンと叩くなど、徹底した「根回し(ニコポン)」によって政敵をも懐柔し、荒れた政治状況を収めていきました [12:26]。

4. 安定と飛躍の時代 [14:12]

  • 国際的地位の確立: 桂園時代は内政が安定しただけでなく、外交面でも小村寿太郎らの尽力により、日英同盟の締結、日露戦争の勝利、韓国併合、そして不平等条約の完全改正(関税自主権の回復)を成し遂げ、日本が国際的な「文明国」の仲間入りを果たした時代でもありました [14:22]。

動画の最後では、この安定期の後の激動の「大正政変」について次回の予告がなされています。

https://www.youtube.com/watch?v=5MQT3Lib6rY

別の動画。

要約は以下の通り。

動画「桂園時代とは?本質をわかりやすく解説【日本の歴史】」の内容を要約します。

この動画では、1901年から1913年にかけて桂太郎と西園寺公望が交互に首相を務めた「桂園時代(けいえんじだい)」について、その政治的な本質と歴史的意義を詳しく解説しています。

1. 桂園時代の本質:政治の過渡期 [00:45]

  • 過渡期としての意義: 桂園時代は、「明治維新の功績(実績)を持つ一部の有力者による政治」から、「選挙で選ばれた民衆の支持に基づく政党政治」へと移り変わる中間の時期にあたります [01:02]。

  • 権威の源の変化: それまでの政治家は維新の「実績」が力の源でしたが、この時代を経て、選挙での「議席数」や「民衆の支持」が政治権力の正当性となる時代へと変化していきました [01:30]。

2. 二大勢力の構図 [05:01]

当時の政治界は、以下の2つの大きなグループに分かれていました。

  • 山県閥(やまがたばつ): 山県有朋をリーダーとし、陸軍や貴族院を支持基盤とする非政党勢力。後継者は桂太郎です [05:29]。

  • 立憲政友会(りっけんせいゆうかい): 伊藤博文が創設し、衆議院を基盤とする政党勢力。後継者は西園寺公望です [05:41]。

    この対立する2つの勢力が、お互いに協力・妥協しながら政権を回したのが桂園時代です [07:00]。

3. 各内閣の主な出来事 [09:23]

  • 第1次 桂内閣: 日露戦争を遂行。政友会の協力を得るため「戦後は政権を譲る」という密約を交わしました [10:20]。

  • 第1次 西園寺内閣: 鉄道国有法などを制定。しかし、政党を嫌う山県有朋の妨害を受け、総辞職に追い込まれました [11:09]。

  • 第2次 桂内閣: 不平等条約の改正(関税自主権の回復)に成功しました [12:06]。

  • 第2次 西園寺内閣: 明治天皇の崩御や辛亥革命が発生。軍部の拡大要求(2個師団増設問題)により倒れました [12:22]。

4. 桂園時代の終焉と二大政党制への道 [15:23]

  • 大正政変: 政治から引退させられようとしていた桂太郎が、原則を破って再び首相(第3次内閣)に就任したことで「第1次護憲運動」が発生。わずか約60日で退陣しました [16:12]。

  • 歴史的意義: 桂が自らの政党(後の立憲同志会)を作ろうとしたことが、その後の「立憲政友会」と「立憲民政党」による二大政党制の出発点となりました [18:14]。これにより、後に「憲政の常道」と呼ばれる本格的な政党政治の時代が幕を開けることになります [18:01]。

https://www.youtube.com/watch?v=uzUKZ3P06Cc

桂園時代の今(オールドメディアの悪質性)への教訓として。

桂園時代から導き出せる「今」への教訓は以下の3点に集約されます。


1. 「虚名」を捨て、「実弾(組織と予算)」を握れ

桂園時代の立憲政友会が強かったのは、メディアの評判ではなく、地方の道路や橋、鉄道といった**「実利」と引き換えに地方票を固める組織力**を持っていたからです。

  • 教訓: メディアが作る「期待感」という虚像に甘んじている間は、政権は取れません。メディアが黙殺しても崩れない、独自の集票・利益誘導のネットワーク(現代ならSNSや特定の職能団体との強固な結びつき)を構築した側が、最後には勝ちます。

2. 「敵」との妥協こそが、最大の実務訓練

桂太郎(藩閥)と西園寺公望(政党)は、本来相容れない存在でしたが、あえて「上位統合(妥協)」して交互に政権を回しました。これにより、政党側は「反対するだけ」の存在から「予算を執行する」当事者へと成長しました。

  • 教訓: オールドメディアが「対決構図」を煽り、それを野党が真に受けて「何でも反対」を演じている限り、統治能力は育ちません。メディアの描く物語を裏切り、政権側と泥臭い政策合意を形成する「リアリズム」こそが、国民に「ここなら任せられる」と思わせる唯一の道です。

3. 「世論の暴走」を制御する覚悟を持て

日露戦争後、メディアが煽った「賠償金が少なすぎる」という国民の怒りが日比谷焼打事件を招きました。当時の政治家たちは、この「メディアに踊らされた民衆」の危うさを痛感し、より慎重な統治体制を築きました。

  • 教訓: メディアの「持ち上げ」は、一度逆風に変われば手のひらを返した「叩き」に変貌します。メディアが作る空気(トレンド)に依存する政党は、その空気に殺されます。メディアに依存せず、自前の理念とロジックで国民を説得する「自立した発信力」が不可欠です。


端的な一言

「メディアが描く『期待』という幻影を捨て、自前の組織で『実利』を配分する統治のリアリズムを掴め」

時代が違うので難しいですが、こういう政治が実現すればと思います。

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