今回は五・一五事件について。
まずは、江崎道朗さんの著書:コミンテルンの謀略と日本の敗戦 から。
拙著『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』で書いたのは、コミンテルン万能論の否定だった。戦前、確かにコミンテルンの対日工作はあったし、それを過少評価してはいけないが、何よりも問題であったのは、政府、特に愛国者たちのマクロ経済オンチであった。マクロ経済オンチが、日本を敗戦へと追い込んだ…
— 江崎道朗@富民厚防 (@ezakimichio) April 7, 2025
拙著『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』で書いたのは、コミンテルン万能論の否定だった。戦前、確かにコミンテルンの対日工作はあったし、それを過少評価してはいけないが、何よりも問題であったのは、政府、特に愛国者たちのマクロ経済オンチであった。マクロ経済オンチが、日本を敗戦へと追い込んだと言うべきなのだ。
当時の日本政府は、非常事態なのだから、民間企業も国民も政府の指示に従って当然だと言わんばかりに「無償の」協力を強いたばかりか、法律を使って、民間の経済活動にあれこれと指示、干渉するようになった。
このため、民間の経済活動は委縮し、国民は面従腹背をするようになり、政府と国民の対立は深まっていく。
しかも、自由な経済活動を維持しようとした民間企業や国民は、非国民だと非難され、自称「愛国的な言論人たち」も、東條政権の憲兵隊による言論弾圧を支持する。かくして、民間の生産力が落ちていくことになり、日米戦争勃発を受けて、物資不足に軍も国民も苦しむことになっていく。
かくして民心は、政権から離れ、法律と権力によって国民を抑えつけようとした戦時中の政府と軍の動きに対して戦後、国民の反発、反感が一斉に噴出することになった。戦前に対する反感は、戦後の占領軍による東京裁判史観だけが原因ではないのだ。
ちなみに近衛、東條政権のもとで進められた統制経済に反発した山本勝市は戦後、自民党の自由主義経済の基本政策立案に携わった。同じく山本と同調した経済人たちが戦後の日本経済の復興を担ってきた。
機微技術を守るための対策、対中経済依存度を下げる政策は必要だが、その一方で経済安全保障などを名目に、政府の統制を強める動きが見えるのは本当に気がかりだ。(以下、拙著から引用)
当時、陸軍のめざす高度国防国家建設や、政界で進められていた新体制運動に伴って、統制経済の動きが急になっていたが、これに対しては、財界から強い批判と反発があった。経済は生き物である。政治が経済をすべてコントロールしようとすれば、豊かになるどころか経済は死ぬのである。経済人たちが批判するのは当然だった。
支那事変の長期化とそれに伴う統制経済の導入によって日本経済は確実に混迷を深めていた。のちに詳しく紹介するが、小田村たちを懸命に応援した経済学者の山本勝市は当時の状況をこう説明する。
《支那事変は、いはゆる統制経済が行われて来たのであるが、その方式がどんなものであるかといえば、私有財産の制限を否認しようとはせず、また個々の企業者の創意と責任は大いに尊重していく。こういう建前でありながらも、生産、配給、輸送、労務、金融などの経済全般にわたって計画はすべて国家の中央部でやる。個々の国民は唯その政府の計画に従ってこれを実施する、こういう建前であった。
ところが、その結果どういうことになったかというと、個々の企業の自由、企業者の創意と責任ということは、耳にタコが出来る程叫んで来たにもかかわらず、事実上、創意心も責任感もなくなってしまった。それから私有財産の否認ということは、言わないだけでなく、私有財産を否認する運動に対しては強力に取締りまでして来たにもかかわらず、私有財産制度というものは半身不随、有名無実になり、だんだん統制が徹底するにつれてますます有名無実になったのである。》(山本勝市「日本経済再建の原則――自由主義経済の立場」(『実業之日本』昭和二十一年二月号)、『社会主義理論との戦い』国文研叢書所収)
悪名高き治安維持法では、私有財産を否定する言論は取締りの対象になった。そのため、表向き私有財産を否定する言論をする人はほとんどいなかったのだが、支那事変以降、国家社会主義に共感を覚え、資本主義を敵視する「革新」官僚たちによって率いられた当の日本政府自身が、統制経済という形で私有財産制度を空洞化させていたのだ。
山本はこう続ける。
《私有財産制度は名あって実なし、それから創意と責任は、しきりに国民に求めるけれども、事実その責任の所在は不明確となり、創意心は衰え、生産意欲は減退の一途を辿って、生産は跛行状態に陥り、あまつさえ全国総闇取引、生産者はもとより消費者も闇をやらければならんことになって、遂に取締る政府自身が闇をやる結果となり、経済は規則と命令と複雑な手続で金縛りになってしまった。これがつ、支那事変以来のいわゆる“統制経済”というものの実績であった。》(同前)
こんな状態であったがゆえに、新体制の名のもとにますます強化されつつあった統制経済に反発していた旧政党人や財界人が、理論的・思想的に新体制と戦う「精研」を全面的に応援するようになっていったのだ。
精研を応援した人々には、政治家では小川平吉・三土忠造(ともに政友会の長老)、当時の内務次官・萱場軍蔵、財界では杉道助(当時、大阪商工会議所副会頭、のちジェトロ初代理事長)、吉野孝一(当時、大阪工業会専務理事、のち日本団体生命社長)、三井財閥の池田成彬、小林中(当時、富国徴兵保険専務取締役、のち日本開発銀行初代総裁)、中島飛行機の中島知久平、出光興産創業者の出光佐三らがいる。コミンテルンの謀略と日本の敗戦 (PHP新書) https://amzn.asia/d/fGGPB7r #Amazon via
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この本の第三章を多くの方々に読んでほしいと思います。
以下、第三章の前半分の要約(コミンテルンによる工作を中心に)
「二十七年テーゼ」(1927年テーゼ)とは、1927年(昭和2年)にコミンテルン(国際共産主義組織)が日本共産党に向けて下した、日本での革命を進めるための公式な活動指針(綱領)です。
その核心と、今回の文脈における重要性は以下の3点に集約されます。
1. 「二段階革命論」の提示(天皇制の打倒)
当時の日本を「天皇制(君主制)と財閥・地主が結託して支配する国」と分析しました。いきなり社会主義革命を起こすのではなく、まずは第一段階として「天皇制の廃止」と「地主の土地没収」による民主主義革命を達成し、その後に社会主義革命へ移行するという「二段階の革命路線」を決定づけました。
2. 軍隊(兵士)への浸透工作の命令
このテーゼの中で、知識人へのアプローチだけでなく、労働者・農民、そして特に「軍隊(兵士)」の中に潜り込んで組織を拡大せよという具体的な指示が出されました。これが、昭和初期に軍内部で反戦・反体制の赤化工作が急増した直接の引き金となりました。
3. 「敗戦革命」への伏線
日本と米英の対立(矛盾)を利用して戦争を起こさせ、国を疲弊・敗戦に追い込むことで、その大混乱に乗じて一気に共産主義革命(敗戦革命)を成し遂げようとする、コミンテルンの長期的な対日謀略のベースとなった基本文書です。
一言でいうと
**「日本の天皇制を打倒し、軍隊や大衆を中から切り崩して、最終的に日本を共産主義化するためにコミンテルンが作った作戦指示書」**です。
【要約】コミンテルンによる対日工作のメカニズム
1. 最終目的と戦略:「日米英の離間」と「敗戦革命」
日米英を戦わせる画策: コミンテルンは「二七年テーゼ」に基づき、中国進出をめぐって対立する日本と米英の矛盾を利用し、「日本、米、英を戦わせよう」という思惑(離間工作)を持っていました。
敗戦革命路線の提示: 日本が戦争に突入した際、自国政府を敗北に導くことで、帝国主義戦争を「内乱(プロレタリア革命)」へと転換させ、日本を共産主義化することを目指していました。
2. 工作の手法:軍隊(陸海軍)への徹底した浸透
「兵士」を重要ターゲットに設定: 知識人への働きかけだけでは不十分というロシア革命の教訓から、コミンテルンは労働者・農民に加えて「兵士(軍隊)」を大衆組織化の主たる対象としました。
赤化工作の激化: 兵舎や軍艦内、軍需工場(砲兵工廠や士官学校など)に共産党の細胞(組織)を植え付け、「兵士の友」といった地下出版物や反戦ビラを大量に配布しました。これにより、軍内での摘発件数は1929年の約400件から、1932年には1905件へと急増しました。
3. 工作の影響:五・一五事件にみる思想的侵食
檄文(げきぶん)の酷似: 五・一五事件で海軍青年将校らが掲げた「財閥を殺せ」「苦しんでいる農民労働者階級を守れ」という檄文は、共産党の宣伝パンフレットの論理や語彙とそっくりでした。
無自覚な路線の踏襲: 青年将校たちの多くはコミンテルンの直接の指示で動いていたわけではありません。しかし、当時のアカデミズムの主流だった社会主義思想に毒されていたため、知らず知らずのうちにコミンテルンが主導する論理(資本主義打破・武力革命)に乗せられていたのです。
4. 工作の真髄:「愛国者」を盲従者(デュープス)として利用する巧妙さ
騙されやすい人の利用: コミンテルンの工作が最も巧みだったのは、共産主義者ではない人々――資本家、自由主義者、そして「皇室を尊ぶ愛国者」をも反体制運動に利用した点にあります。
良意の逆利用: 徳川義親や軍のエリートたちは、純粋に「貧困に苦む民のため」「皇室のため」に政党政治を打倒して「真の維新」を成し遂げようと動いていました。しかし、マクロ経済の知識や共産主義の謀略に対する警戒が薄かったため、結果的にコミンテルンの武力革命路線を後押しする「デュープス(騙されやすい盲従者)」として都合よく利用されてしまいました。
結論
コミンテルンの工作の本質は、直接的な共産党員を増やすことだけではなく、「社会不安(不況)に憤る愛国者や軍人たちのエネルギーを巧みに操り、彼ら自身の国を内側から破壊(テロ・クーデター)させるように仕向けたこと」にあります。
以下、五・一五事件についてのXやYoutube動画など。
五一五事件と同じ風潮です。
そして日本は道を間違えました。
まともな人は相手してはいけません。 https://t.co/GhwWD4xyZd— てつお1648弐号機@世田谷減税会in Malaysia (@Setagaya_genzei) January 14, 2023
1932年の今日、海軍青年将校らが首相官邸などを襲い、犬養毅首相を射殺。いわゆる #五・一五事件 です。
当時は犯人に対する助命嘆願運動がおこるほど、腐敗した政党政治への反感は高まっていました。中村政則・森武麿編『年表 昭和・平成史 新版』☞ https://t.co/IdoaKmZFYl pic.twitter.com/0NOB4ZSXAg
— 岩波書店 (@Iwanamishoten) May 15, 2026
今日は5月15日。94年前のこの日、犬養毅首相が首相官邸で海軍青年将校らに暗殺されました(五・一五事件)。首相になる前、大陸で民主化を求める孫文を支援し、孫文が日本に亡命するとかくまいました。犬養はアジア連帯・アジア主義の思想を持ち、欧米列強のアジア侵食に対抗するため、日本と中国が手を… pic.twitter.com/O8CvafNXCa
— カジポン (@kajiponmz) May 15, 2026
今日は5月15日。94年前のこの日、犬養毅首相が首相官邸で海軍青年将校らに暗殺されました(五・一五事件)。首相になる前、大陸で民主化を求める孫文を支援し、孫文が日本に亡命するとかくまいました。犬養はアジア連帯・アジア主義の思想を持ち、欧米列強のアジア侵食に対抗するため、日本と中国が手を携えてこれに対抗すべきと考えていました。
1931年、軍の自作自演のテロをきっかけに満州全土(中国東北部)を占領する満州事変が勃発し、軍部の台頭を抑えられなくなった若槻内閣が総辞職します。
犬養は満州事変を中華民国との話し合いで解決するべきと考えており、これを評価した穏健派の元老・西園寺公望が昭和天皇に次期首相として犬養(政友会総裁)を推薦。かくして76歳という高齢で犬養は首相に就きました。軍部は「満州国」の承認を犬養に迫りましたが、アジア主義者の犬養はこれを拒否。既に原首相や浜口首相が右翼テロで殺傷されていただけに、とても勇気のいることでした。
翌1932年5月15日、海軍急進派の青年将校らを中心とするクーデター・グループが蜂起。その狙いは、首相暗殺と変電所襲撃による首都の暗黒化で戒厳令を出させ、軍部が直接政治を動かす体制をつくる国家改造でした。
日曜日の夕刻17時半ごろ、官邸でくつろいでいた犬養のもとに海軍青年将校と陸軍士官候補生の一団がピストルを片手に突如乱入。警備の田中五郎巡査が首相の居場所を答えなかったため銃撃されました(後日死亡)。表門から入った海軍中尉・三上卓ら5人が食堂にいた犬養を発見し、三上は即座にピストルを撃ちましたが不発でした。
犬養は両手を上げ「話せばわかる」と応接室に案内し、「靴ぐらい脱いだらどうだ」と煙草を勧めます。三上が「何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか」と尋ねたところへ、裏門組の海軍中尉・山岸宏以下4人が駆けつけ、山岸が「問答無用、撃て!」と叫ぶと一斉に引き金が引かれ、腹部や頭部に3発が命中。将校らは官邸を立ち去りました。
女中が駆けつけると、犬養は血を流しながら「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と訴えます。4時間半が経った22時ごろ、大量の吐血をした犬養は「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」と周囲の者を励まし、見舞いに来た家人には「九発撃って三発しか当たらぬとは、軍はどういう訓練をしているのか」と漏らしました。その後、次第に衰弱し23時26分に絶命しました(78歳)。
クーデターは失敗に終わりますが、「軍に逆らえば官邸にいても殺される」という政治的効果は絶大で、犬養の死によって政党内閣の時代が終わり、以後、軍部の政治介入が急速に強まっていきます。恐怖が政治を変える時代になったのです。
一方、犬養は個人として尊敬されていたものの、政党政治全体が腐敗した金権政治と見なされており、民衆の間には「若い軍人たちの怒りはわかる」という声があり、全国的な減刑嘆願運動が広がり百万人もの署名が集まりました。
現職総理を殺害した実行犯にもかかわらず、死刑が適用されなかったばかりか、最終的に官邸に突入した全員が数年後に恩赦で釈放され、彼らはのちに大陸で出世しました。これが「テロをやっても大して罰せられない」という前例となり、4年後の二・二六事件につながります。犬養の死から9年後、日本は真珠湾攻撃を敢行し、国土が焦土となるまで戦争に突き進んでいきました。政治への失望が軍国主義をもらたした5月15日は、後世の日本人にとって警鐘となる特別な日です。
【墓巡礼】犬養首相は浜口雄幸ら総理経験者が多く眠る青山霊園に埋葬されています。政治家の墓は巨石に位階や爵位が大きく刻まれているものが多いですが、犬養の墓は一般人の大きさで「犬養毅之墓」としか彫られておらず、その親しみやすい人柄が偲ばれます。
藩閥政治打倒の先頭に立ち、大正デモクラシー運動を牽引した犬養について、政界のボス、長州藩出身の元勲・山縣有朋は「議員で自分の許を訪れなかったのは犬養毅だけ」と遺しています。※35歳で衆院議員に初当選してからの18回連続当選は尾崎行雄に次ぐ記録。ひ孫には、元国連難民高等弁務官の緒方貞子さんや、女優の安藤サクラさんがいます。
〔画像〕青山霊園の墓所(側面に命日5月15日)、岡山の生家、そして生誕地碑#五・一五事件 #犬養毅 #墓マイラー
岡山の生家には行ってみたいと思います。
五・一五事件に関する解説動画。
要約は以下の通り。
動画(https://youtu.be/BrK1y0sVD24)は、1932年に起きた「五・一五事件」に至るまでの背景、その経緯、そして事件が日本に与えた影響について、歴史的な流れを追って詳しく解説しています。
以下に要点をまとめました。
満州事変と一夕会の台頭 [00:31]
1931年に起きた満州事変は、若槻礼次郎内閣の不拡大方針に反し、関東軍が独断で進めました。その後、犬養毅が首相となると、陸軍内部の「一夕会」というグループが台頭します。彼らは陸軍中枢を掌握し、政党政治を嫌って軍主導の政治を目指すようになりました。
犬養毅と陸軍の対立 [03:57]
一夕会は満州国を建国して日本の支配下に置こうと計画します。しかし、犬養毅は「中国の領土を分割し、九カ国条約に違反する」として満州国の承認に反対し、両者は激しく対立することになります。
高まる不満とテロの連鎖 [05:32]
当時の日本は世界恐慌の影響で国民が貧困に苦しむ一方、政治家や財閥ばかりが利益を得ているという不満が高まっていました。海軍の青年将校や過激な民間人は、支配層を排除することで国を救えると考え、血盟団事件(井上準之助や團琢磨の暗殺)などのテロが引き起こされます。
五・一五事件の発生 [08:09]
こうした不満が頂点に達し、海軍の青年将校たちはクーデターを計画します。彼らは首相官邸や内大臣官邸、警視庁などを襲撃し、東京を停電させて軍部政権を樹立しようと企てました。夕食中だった犬養毅首相のもとに彼らが押し入った際、犬養は「話せば分かる」と対話を試みますが、将校たちは「問答無用」と射殺してしまいます。
クーデターの失敗とその後の影響 [09:16]
首相の暗殺以外、変電所の襲撃などの計画は失敗し、クーデター自体は鎮圧されました。しかし、この事件の影響は甚大でした。犬養内閣の崩壊後、通常であれば同じ政党から次の首相が選ばれるはずですが、陸軍が「再び政党内閣になれば次の事件が起きる」と強く反対したため、政党内閣の成立は断念されました。
政党内閣の終焉と軍国主義への道 [10:26]
これにより、8年間続いた戦前の「憲政の常道」(政党内閣制)は終わりを告げます。「話せば分かる」という民主主義の精神が「問答無用」という暴力によって否定されたこの事件を境に、日本は軍部の発言力が強まり、戦争への道を突き進んでいくことになります。
この動画は、五・一五事件が単なる暗殺事件ではなく、陸軍の派閥争いや満州問題、そして当時の社会不安が複雑に絡み合った結果であり、日本の政治体制を大きく変える歴史的な転換点であったことを分かりやすく解説しています。
別の動画。
要約は以下の通り。
動画(https://youtu.be/eFN-JnU0614)は、「五・一五事件」がなぜ起きたのか、その時代背景(経済状況、国際関係、政治不信)から事件の経過、そしてその後の影響までを非常に詳しく、約43分かけて掘り下げて解説しています。
以下に要点をまとめました。
1. 事件の背景:相次ぐ経済危機と政治への不満 [00:50]
大不況の連鎖: 第一次世界大戦の特需後、日本経済はヨーロッパの復興により輸出が減少し、さらに関東大震災(1923年)、そして世界恐慌(1929年)の打撃を受け、企業倒産や失業者が溢れる大不況に陥っていました。
政党政治への不信感: 政府(立憲民政党など)は、不況対策として「重要産業統制法」などを作りましたが、国民から見れば「政府と大企業が癒着して利益を独占し、国民から搾取している」と映り、政治への不満が極限まで高まっていました。
2. 軍縮条約と「統帥権干犯」問題 [16:46]
ロンドン海軍軍縮会議: 財政難の中、日本政府はアメリカ・イギリスとの軍艦建造競争を抑えるため、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、軍艦保有数を英米の7割弱に制限することを受け入れました。
野党と軍部の反発: 野党(立憲政友会)は、軍(海軍)の反対を押し切って政府が勝手に条約を結んだことは、大日本帝国憲法で定められた天皇の軍隊指揮権(統帥権)を侵す「統帥権干犯」であると激しく非難し、これが大きな政治問題となりました。
3. 満州事変と国民の軍部支持 [23:02]
関東軍の暴走: 1931年、満州に駐留する関東軍は自作自演の鉄道爆破事件(柳条湖事件)を起こし、それを口実に満州全域を武力占領しました。
国民の支持: 政府は不拡大方針をとりましたが、不況に苦しむ国民は、景気回復の期待から強硬な軍部の行動を熱狂的に支持しました。その後、犬養毅(立憲政友会)が首相となりますが、軍の暴走を止めることはできませんでした。
4. 海軍青年将校たちの野望「昭和維新」 [32:17]
腐敗した政党政治や弱腰な外交、統帥権干犯に強い不満を持った海軍の青年将校たちは、明治維新になぞらえた「昭和維新」を計画します。
彼らの目的は、総理大臣を暗殺し、東京を停電させて大混乱を起こすことで国に「戒厳令」を出させ、それに乗じて軍部中心の新しい政府を樹立することでした。
5. 五・一五事件の発生と結果 [36:36]
1932年5月15日、青年将校たちは首相官邸を襲撃します。犬養毅首相は「話せば分かる」と対話を試みますが、将校たちは「問答無用」と射殺しました。
しかし、停電計画などは実戦経験の乏しさもあって失敗に終わります。焦った将校たちは事件後すぐに自首してしまったため、目的であった戒厳令が敷かれることはありませんでした。
事件の影響: クーデター自体は失敗したものの、国民からは暗殺犯に対する助命嘆願が殺到しました。この圧倒的な軍部支持の世論を受け、次の首相には元海軍大将の斎藤実が就任。結果的に、政党政治は終わりを告げ、日本は軍部主導で太平洋戦争へと突き進む転換点となりました。
二・二六事件と関連させての動画。
要約は以下の通り。
動画(https://youtu.be/ZKUhA0RYabU)は、昭和初期に起きた日本の歴史的な転換点である「五・一五事件」と「二・二六事件」について、その背景から結果までを分かりやすく解説しています。
以下に要点をまとめました。
事件の背景(世界恐慌と国民の不満) [00:00]
約90年前、世界恐慌や度重なる自然災害により日本中の人々が貧困に苦しんでいました。農村の生活が困窮する一方で一部の財閥だけが利益を上げていたため、国民や農村出身者の多い軍隊内で政治に対する不満が限界に達していました。
五・一五事件の発生 [01:51]
不況への対応に加え、国際的な軍縮条約や満州国に対する政府の弱腰な姿勢に不満を持った海軍の青年将校たちが、5月15日に武装蜂起しました。彼らは首相官邸などを襲撃し、当時のリーダーであった犬養毅首相を暗殺します。
軍部の台頭 [02:17]
事件後、暗殺犯たちへの減刑を求める国民の署名が100万人以上集まるほど、当時の政治家は国民から支持されていませんでした。この事件をきっかけに、日本のリーダーは政治家から軍人へと変わっていきます。
陸軍内部の派閥争い [02:39]
陸軍内では、武力クーデターによって天皇中心の国作りを急ぐ過激な「皇道派」と、現在の体制のまま軍部の力を強めようとする穏健な「統制派」の2つのグループが対立するようになります。やがて統制派が権力を握り、危険視された皇道派のメンバーは満州へ左遷されることになりました。
二・二六事件の発生 [03:54]
満州へ飛ばされる前に実力行使に出ようと考えた皇道派の青年将校たちは、五・一五事件の4年後の2月26日、何も知らない1500人の兵士を率いて大規模なクーデターを起こしました。高橋是清や斎藤実など複数の政府要人を殺害し、永田町周辺を占拠します。
天皇の激怒とクーデターの鎮圧 [04:48]
皇道派は天皇が味方をしてくれると思い込んでいましたが、昭和天皇はこの反乱に激怒しました。天皇自ら鎮圧に乗り出す姿勢を見せたことで反乱軍は降伏し、クーデターを起こした将校たちは死刑となりました。
軍国主義国家への変貌 [05:53]
この二・二六事件によって皇道派が一掃されたことで、結果的に「統制派」が陸軍内で絶対的な権力を握ることになります。これにより、日本は政党政治から完全に軍国主義の国へと変貌していくことになりました。
(※おまけとして、現在では首謀者の将校たちが処刑された場所に慰霊像が建っており、なぜかそこで告白やプロポーズをすると成功しやすい「恋愛スポット」になっているというエピソードも紹介されています [06:00])
日本の政治がどのようにして軍部主導へと傾いていったのかが、時系列で非常に分かりやすく整理されている動画です。
江崎道朗氏が指摘されている通り、五・一五事件の悲劇の本質は、単なるテロ事件に留まりません。当時の深刻な経済危機に対し、政府がマクロ経済の原則を無視したデフレ政策を強行したこと、そしてそれに憤った軍人や「愛国者」たちが、結果としてコミンテルンの謀略(国家社会主義・資本主義打破)に無自覚に利用され、国家統制の罠にはまっていったことにあります。
政治が経済に過剰に介入し、規則と命令で金縛りにした結果、民間の生産力は萎縮し、日本は敗戦へと突き進みました。「良かれと思って行う国家の統制」が経済を死なせるという事実は、戦後の自由主義経済の復興を支えた先達が証明しています。
現代においても、経済安全保障や様々なリスク対策を名目に、政府による民間への統制や干渉を強めようとする動きが散見されることには、強い危機感を抱かざるを得ません。どのような非常時であっても、経済の活力の源泉は「個人の創意工夫と自由な経済活動」にあります。
歴史の過ちを二度と繰り返さないためにも、安易な国家統制や減税を阻む規制強化の動きに歯止めをかけ、自由主義・民主主義を基軸とした国政のあり方をこれからも徹底して追求してまいります。