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200万人の「人間の鎖」とバルト三国の不屈の歴史戦〜日本が見習うべきソ連の戦争犯罪への告発〜

今回はバルト三国の「人間の鎖」について。

1989年の8月23日に行われたイベントです。

バルト三国の「人間の鎖(英語名:The Baltic Way / バルトの道)」は、1989年8月23日に、ソビエト連邦の支配下にあったバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の市民が独立を求めて行った、世界史に残る平和的なデモ活動です。

1. 何が行われたのか?

1989年8月23日の夕方、3カ国の市民約200万人が手をつなぎ、各国の首都を結ぶ一本の巨大な「人間の鎖」を形成しました。

  • 総延長: 約600キロメートル

  • ルート: エストニアの首都タリン 〜 ラトビアの首都リガ 〜 リトアニアの首都ヴィリニュス

  • 規模: 当時のバルト三国の全人口(約800万人)の約4人に1人が参加した計算になります。

市民たちは手をつなぎながら、それぞれの民族の歌(ソ連体制下では公に歌うことが禁じられていた歌など)を歌い、自由と独立への意思を世界にアピールしました。

2. なぜ「8月23日」だったのか?

この日付は、歴史的にきわめて重要な意味を持っています。

ちょうど50年前の1939年8月23日、ナチス・ドイツとソビエト連邦の間で「独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)」が結ばれました。

この条約の秘密議定書によって、バルト三国はソ連の勢力圏に割り振られ、翌年に力づくでソ連に併合されることになります。バルト三国の市民にとって、この日は「独立を奪われた屈辱の日」であり、50年の節目に「あの秘密条約は違法であり、私たちは自らの意志でソ連に組み込まれたのではない」と国際社会に告発するために、この日が選ばれました。

3. 歴史的な意義と影響

この「人間の鎖」は、冷戦末期の東欧革命に決定的な影響を与えました。

  1. 圧倒的な非暴力の力

    武器を一切持たず、ただ手をつなぎ歌を歌うという完全な非暴力の姿勢が、世界中のメディアで生放送され、国際世論の強い支持を集めました。

  2. ソ連に与えたプレッシャー

    これほどの規模の民衆が結束したため、ソ連側も武力による抑え込み(赤軍の介入など)を躊躇せざるを得なくなりました。結果として、同年12月にソ連の人民代議員大会は「独ソ不可侵条約の秘密議定書は無効であった」と公式に認めざるを得なくなります。

  3. 独立への決定打

    この運動をきっかけに独立への流れは決定決定的となり、翌1990年から1991年にかけてバルト三国は次々と独立を宣言。そして1991年12月のソビエト連邦崩壊へとつながっていきました。

現在、この「バルトの道」に関する記録物(写真、映像、文書など)は、人間の連帯の尊さを示す歴史的価値が認められ、ユネスコの世界記憶遺産(世界の記憶)に登録されています。

関連動画を紹介します。

内容は以下の通り。

動画は、「ハルカゼツアー」によるリトアニアの「ヴィリニュス大聖堂」とバルト三国の独立運動(人間の鎖)についての解説動画です(2020年公開)。

主な内容は以下の通りです。

1. ヴィリニュス大聖堂の建築と特徴 [01:25]

  • 外観: ギリシャ神殿のような柱(ドリア様式)が特徴的なカトリックの教会です [01:29]。

  • 歴史と様式: 13世紀に建てられて以降、増改築が繰り返されたため、ゴシック様式やルネサンス様式など、複数の建築様式が混ざり合っています [01:37]。

  • 鐘楼と内部: 大聖堂の隣には高さ53メートルの鐘楼(ベルタワー)があり、夜は国旗の色にライトアップされます [01:52]。内部は開放的な広い空間で、美しいパイプオルガンが設置されています [02:08]。

2. 「奇跡の石」の伝説 [03:15]

  • 大聖堂の前にある広場には、リトアニア語で「奇跡」を意味する文字が刻まれた石のタイルがあります [03:27]。

  • この石の上に乗って3回まわると願い事が叶うという、観光客にも人気のスポットです [03:33]。

3. 歴史的イベント「バルトの道(人間の鎖)」 [03:48]

この大聖堂の広場は、バルト三国の独立において非常に重要な聖地となっています。

  • 1989年8月23日: 当時ソビエト連邦の支配下にあったバルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)の国民が独立を求めて抗議行動を起こしました [03:58]。

  • 200万人の連帯: ヴィリニュス大聖堂の広場を起点として、3カ国をまたぐ全長約600キロメートルに及ぶ「人間の鎖」が作られました [04:36]。約200万人もの人々が手をつなぎ、世界に向けて独立への強い意志をアピールしました [05:21]。

4. ドラマチックな独立への軌跡 [06:08]

  • 翌年の1990年から1991年にかけて、バルト三国は独立を宣言します [06:13]。

  • 独立を阻止しようとするソビエト軍の戦車部隊が突入し、一般市民に発砲して死傷者が出る痛ましい事件も起きました(生放送で世界に報道されました) [06:34]。

  • しかし、その日の夜には数万人、翌朝にはさらに多くのリトアニア国民が集まって非暴力で国を守り抜き、1991年後半に正式に独立を勝ち取りました。その数ヶ月後、ソビエト連邦は崩壊へと向かいました [07:01]。

旅行会社の視点から、美しい観光名所の見どころだけでなく、教科書だけでは見えてこない当時の緊迫した歴史的背景やドラマを分かりやすく伝えている動画です。

内容は以下の通り。

1. 動画の概要

共有していただいた動画は、旅行系YouTuber「ハピトリ / HAPPY TRIPS」による東欧周遊旅のVlog(リトアニア編)です。

前半はリトアニアの首都ヴィリニュスの主要な世界遺産スポットを巡り、後半はリトアニア最大の聖地であり、無数の十字架が乱立する広大な「十字架の丘」を訪れ、その圧倒的なスケールと歴史的背景をリポートしています。

2. 前半:首都ヴィリニュスの観光名所 [00:57]

  • ヴィリニュス大聖堂 [01:05]

    13世紀半ば、リトアニアを統一したミンダウガス王が、ドイツ騎士団(十字軍)の圧力を逃れるためにキリスト教へ改宗した際に建てられた、街のランドマークです。

  • ゲディミナス城(ゲディミナス塔) [01:33]

    旧市街を一望できる高台に位置する城跡です。歴史的に幾度もドイツ騎士団の襲撃を受けながらも、街を守り抜いた防衛の要所でした。塔の上からは、オレンジ色の屋根が美しいヴィリニュスの世界遺産の街並みが綺麗に見渡せます [03:11]。

  • バルトの道(人間の鎖)への言及 [02:32]

    ゲディミナス塔へ向かう途中で、1989年に開催された「人間の鎖(バルトの道)」について触れています。先ほどの大聖堂広場から3カ国を結んだ、約200万人が手をつないだ当時の貴重な実際のニュース映像がインサートされています [02:47]。

  • 夜明けの門(暁の門) [03:34]

    かつて街を囲んでいた城壁のうち、現存する唯一の門です。門の2階には「奇跡を起こす」と信じられている聖母マリアの肖像画が安置されており、多くの信者が病気平癒や旅の安全を祈る非常に重要な巡礼地です [04:03]。

3. 後半:想像を絶する聖地「十字架の丘」 [04:31]

動画の後半では、次の国へ移動する途中に、リトアニア北部にある世界的に有名な「十字架の丘(シュライレイ)」を訪れます。

  • 十字架の丘とは [05:05]

    大小さまざまな十字架が文字通り「山」のように積み重なった丘です。もともとはロシア帝国に対する蜂起や、独立戦争、その後のソ連占領時代に亡くなった方々を追悼し、国の平和や信仰の自由を祈るために、民衆が自発的に十字架を持ち寄り、建て始めたのが起源です。

  • ソ連時代の弾圧を乗り越えた歴史

    ソ連占領時代、宗教を否定する共産党政権によって、この丘の十字架はブルドーザーで何度も完全に破壊され、立ち入り禁止にされました。しかし、リトアニアの人々は夜中に命がけで忍び込み、何度壊されても新しい十字架を建て続けました。まさにリトアニア国民の「不屈の精神と信仰の象徴」と言える場所です。

  • 現場の圧倒的なスケール感 [05:54]

    投稿者は現地で小さな十字架を購入し、自らも丘に差し込んで祈りを捧げています [04:59]。数え切れないほどの十字架(数十万〜数百万本とも言われる)が折り重なり、風が吹くとロザリオや小さな十字架がカチャカチャと音を立てる、神聖で少し不気味さすら覚えるほどの、強烈なエネルギーに満ちた光景が映し出されています。

美しい中世の街並みをもつヴィリニュスと、歴史の重みを肌で感じる十字架の丘、リトアニアが持つ「二つの顔」を旅人の目線でリアルに体感できる構成になっています。

江崎道朗さんの記事を紹介します。

600キロにわたる「人間の鎖」。バルト三国独立への強いメッセージ

記事は2ページからなり、前半は人間の鎖に関してのもの。後半が特に注目に値します。

各地に戦争犯罪を告発する博物館を建設

1991年にソ連邦から離脱し、独立を取り戻したバルト三国は、その後もソ連・スターリンの戦争責任追及を止めませんでした。各地にソ連・スターリンの戦争犯罪を告発する博物館を建設し、その実態を克明に記録し、語り継ごうとしているのです。

例えば、エストニアの古都タルトゥに建てられているKGB監獄博物館(KGB PrisonCells)の売店で購入した、歴史の記憶に関するエストニア研究所編『ソ連化と暴力(Sovietisation and Violence: The Case of Estonia)』(2018年発行/未邦訳)には、こう書かれています。

《バルト諸国で政治的逮捕が最も多くなったのは1945年のソ連による再占領以降のことであり、大規模な強制移住が行われたのは、1948~1949年(リトアニア)および1949年(エストニアとラトビア)のことだった。1949年3月の強制移住の際には、ものの数日のうちに2万人以上の人々がエストニアからシベリアに送られたが、さらに1万人が移住させられる予定だった。》(拙訳)

こうした悲劇は、1939年の独ソ「秘密議定書」に基づいて、ソ連から侵略されたことに始まったのですが、バルト三国の追及はそれだけに留まりません。ソ連の侵略を容認した英米諸国の責任をも追及しているのです。

ラトビアの首都リガには、ラトビア占領博物館があり、第二次世界大戦中にソ連、ナチス・ドイツ、そして再びソ連に占領された時代の苦難の歴史が展示されています。

(本記事内に写真あり)

この展示で目を引いたのは、大西洋憲章に関する展示でした。そこにはこう記されてあったのです。

《ドイツの降伏後、ラトビア国民は、1941年8月14日に大西洋憲章で宣言されたのと同じ自決の原則がラトビアにも適用されると期待していた。だがそうはならず、ラトビアは再びソ連に占領された。1944年の夏、赤軍(ソ連軍)がまたもやラトビアの領土を侵略し、1944年10月13日にリガを占領した。ラトビアの東半分はソ連の占領下に入った。西部(クルゼメ州)は1945年5月8日の第二次世界大戦終戦までナチスによる支配が続き、そのあとソ連に占領された。その後46年間、ラトビア全土はソ連に占領されたままだった。》(拙訳)

※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。

このようなバルト三国によるソ連の戦争犯罪への非難声明は、日本も見習うべきと思います。

自発的に十字架を立て続けたリトアニア国民の信仰、そして200万人が手をつないだ「人間の鎖」に共通するのは、「主権を決して諦めない」という強烈な意思です。

そして独立後、彼らが「KGB監獄博物館」や「占領博物館」を建ててソ連の戦争犯罪を克明に記録し、さらにはそれを容認した英米の責任までをも厳しく追及している姿勢には、深い感銘を受けます。歴史の真実を風化させず、国際社会に対して主体的に発信し続けることこそが、国の主権を守る最大の防衛策であることを彼らは知っているのです。

ひるがえって、我が国日本はどうでしょうか。 大東亜戦争の終結に際し、ソ連によって不法に占拠された北方領土の割譲、シベリア抑留という筆舌に尽くしがたい非人道的な戦争犯罪に対し、私たちは国際社会に向けて十分にその不当性を告発し、語り継いできたと言えるでしょうか。いわゆる「戦後の自虐史観」に囚われ、相手国の顔色を窺うような外交姿勢を続けていては、真の国益を守ることはできません。

バルト三国の「人間の鎖」から繋がる歴史戦への冷徹なアプローチは、日本が見習うべき、かつ取り入れるべき重要な国家戦略の形です。情報戦・歴史戦において日本が毅然とした非難声明や発信を行っていけるよう、私も引き続き活動を続けてまいります。

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